関連遺産群
Gusuku Sites and Related Properties
of the Kingdom of Ryukyu
琉球王国のグスク及び関連遺産群は、沖縄県の那覇市など3市4村にまたがって点在する、かつてこの地で隆盛を誇った琉球王国の時代の文化遺産である。
琉球王国のグスク及び関連遺産群は、登録資産の総面積が54.9ha、緩衝地帯の総面積が559.7haで合計614.6haに及ぶ。琉球が琉球王国への統一に動き始める14世紀後半から、王国が確立した後の18世紀末にかけて生み出された琉球地方独自の特徴を表す文化遺産群で、今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽の9資産を構成要素としている。これらの資産は文化財保護法に基づき重要文化財(2棟)、史跡(7件)および特別名勝(1件)にも指定されており、保存と活用が図られている。沖縄のグスクには必ず霊地としての役割があり、地域の信仰を集める場所であったと考えられている。琉球諸島は東南アジア、中国、朝鮮、日本の間に位置し、それらの文化・経済の中継地であったことを背景に、グスク(城塞)を含む独自の文化財および信仰形態をともなっている。
琉球王国のグスク及び関連遺産群は世界遺産登録基準における以下の基準、
【(2)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響をを与えた、ある期間にわたる価値感の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。ーーー〔数世紀もの間、琉球諸島は東南アジア、中国、韓国、そして日本との経済的、文化的交流の中心地として貢献してきた。このことは、今に残された記念工作物群によって明瞭に示されている。〕】
【(3)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくもと希有な存在)である。ーーー〔琉球王国の文化は、特別の政治的、経済的環境下において進化し、発展を遂げた。このことは、その文化に比類のない特質をもたらした。〕】
【(6)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。ーーー〔琉球の聖域は、確立された世界の宗教とともに、近代においてもなお損なわれずに残っている自然と祖先崇拝の固有の形態を表わす例外的な事例を構成している。〕】を満たすとして顕著な普遍的価値が証明され、世界遺産一覧に登録された。
『世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群』(琉球王国のグスク及び関連遺産群世界遺産登録記念事業実行委員会)及び『「琉球王国のグスク及び関連遺産群」包括的保存管理計画』(沖縄県教育委員会)より
今帰仁城跡 なきじんじょうあと
(今帰仁村)
城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵略の際には、その攻撃の第一目標となった。現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に今帰仁城跡として指定される。
座喜味城跡 ざきみじょうあと
(読谷村)
座喜味城は、琉球王国が、日本、中国、東南アジア諸国との交易を通して繁栄した十五世紀初頭、築城の名人と言われた読谷山按司護佐丸によって築かれたと言われている。標高120メートル余の丘陵地に立地しており、最も高いところからは読谷村のほぼ全域を眺望することが出来る。
勝連城跡 かつれんじょうあと
(勝連町)
城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。
13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、「おもろさうし」からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和の鎌倉のごとしと「おもろそうし」にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した。
中城城跡 なかぐすくじょうあと
(中城村、北中城村)
当時貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあり、中城村の北西から南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。
首里城跡 しゅりじょうあと
(那覇市)
かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。
園比屋武御嶽石門 そのひゃんうたきいしもん
(那覇市)
16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽で、石門の背後にある森が園比屋武御嶽である。この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君が就任する時にまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だった。王家尚氏ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し、祭っている。もともとは今よりも広範な森であったが、現在では小学校の敷地となっている部分もあり、残されているのは一部である。
首里城歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がこの御嶽の礼拝所である。園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られた。オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘により創建されたという。
玉陵 たまうどぅん
(那覇市)
中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。
識名園 しきなえん
(那覇市)
識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれた。造園は琉球の第二尚氏王朝、尚穆(在位・1752~1795年)の時代に始まったと言われるが定かではない。完成は尚温の時代の1799年である。
中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されている。完成当時は中国皇帝からの使者(冊封使)をもてなす、現在でいう迎賓館として使われた。「勧耕台」と称する展望台があるが、海を望むことはできない。これは琉球をより大きな国に見せるためともいわれている。
斎場御嶽 せいふぁうたき
(南城市)
王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り(おあらおり)」が行われた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口(うじょーぐち)を越えて進入することは許されず、国王であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。
参考:ウィキペディア
首里城 沖縄県公式チャンネル |
琉球王国
先史時代~三山時代 | |
753年 | 鑑真を乗せた遣唐使船が阿児奈波に漂着。 |
1404年 | 明から最初の冊封使が来る。 |
1406年 | 尚思紹王が中山王に即位して第一尚氏王統開始。 |
琉球王国時代 |
第一尚氏王統 | |
1429年 | 尚巴志が三山を統一し琉球王国が成立。 |
1453年 | 王位継承をめぐる争い志魯(しろ)・布里(ふり)の乱が起こり、首里城全焼。 |
1458年 | 護佐丸・阿麻和利の乱が起きる。 |
第二尚氏王統 |
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1469年 | 尚徳王の家臣の金丸が即位する。第二尚氏王統開始。 |
1531年 | 『おもろさうし』第1巻を編集。 |
1570年 | 東南アジア貿易を廃止。 |
1605年 | 野国総管が甘藷をもたらす。 |
1609年 | 薩摩藩の侵攻を受け、支配下に入る。 |
1634年 | 将軍への使節として江戸上り慶賀使・謝恩使が始まる。 |
1637年 | 先島諸島に人頭税を課す。 |
1660年 | 失火により首里城が全焼する。 |
1665年 | 羽地朝秀改革を開始。 |
1715年 | 首里城が再建される。 |
1771年 | 八重山地震による大津波で、先島諸島に甚大な被害をもたらす。 |
1846年 | イギリス人宣教師ベッテルハイムが来琉。 |
1847年 | 琉球開港。 |
1853年 | 米海軍ペリー提督、那覇に来航する。 |
1854年 | 琉米修好条約に調印。 |
1859年 | 牧志・恩河事件が起こる。 |
1872年 | 日本政府が強制的に琉球藩を設置し、琉球王国は滅亡する。 |
明治以降 |
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1879年 | 廃藩置県により、沖縄県設置。 |
1908年 | 間切制が廃止され、「沖縄県及び島嶼町村制」が施行される。 |
1912年 | 衆議院議員選挙法改正により沖縄県に同法を適用。 |
1914年 | 首里-那覇間に電車開通。 |
1928年 | 旧国宝に指定された首里城正殿の修理始まる。 |
戦後 |
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1945年 | 沖縄戦により全島がアメリカ軍の占領下に置かれる。 |
1945年 | 首里城壊滅。 |
1950年 | 琉球大学を旧首里城跡に創設する。 |
本土復帰~現在 |
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1972年 | 沖縄県の日本本土復帰。 |
1973年 | 沖縄特別国体が開催される。 |
1975年 | 沖縄国際海洋博覧会が開催される。 |
1977年 | 日本における降雪の南限記録となる久米島で雪を観測。 |
1978年 | 自動車の右側通行が左側通行に変更される。 |
1981年 | 翌年にかけて日本最長の326日間にわたる給水制限が実施される。 |
1987年 | 第42回国民体育大会開催。 |
1992年 | 首里城正殿等を復元、首里城公園開園。 |
1997年 | 日米間で普天間飛行場の返還を含む基地移転案に基本合意。 |
2000年 | 九州・沖縄サミット開催。 首里城跡、世界遺産として文化遺産に登録される。 |
2004年 | 沖国大米軍ヘリ墜落事件が起きる。 |
2010年 | 沖縄本島近海で地震が発生。約100年ぶりの震度5以上を観測。 |