琉球漆器

琉球漆器 Ryukyuan Lacquerware


沿革

琉球の漆器は、14世紀末頃に中国から入ってきたと言われている。その頃、琉球王国は、日本で作られたと思われる生漆や漆芸品、螺鈿用の螺殻を中国へ大量に輸出していた。15、16世紀になると琉球漆器は盛んに製作されていく。16世紀にすでに高度に発達した琉球独自の漆芸品を作っていた。その頃作られた琉球漆器の中には、驚くべきことに沈金や螺鈿の技法がすでに取り入れられていた。これらの琉球漆器には、中国元代の鎗金にもひけをとらない細密な文様を施した沈金や、目もくらむほどの鮮やかな朱漆地に大胆に、そしてのびやかに模様を描いた螺鈿など、琉球独特の漆芸文化が華開いていたのである。


技術・技法

漆の乾燥には高い温・湿度が必要で、強い紫外線は彩漆の発色の一助となる。沖縄の気候風土はその最も適した気候条件を備え、全国でも恵まれた産地の一つである。琉球漆器の加飾は、歴史的にも数多くの技法が知られているが、主なものとして沈金・螺鈿・箔絵・堆錦などが上げられる。沈金は刀で模様を彫り、漆を接着剤として金を定着させる技法で、繊細な線による表現が特徴である。螺鈿は模様を切り抜いた夜光貝やアワビ貝を塗面に埋め込んで、七色に発色させる技法で、箔絵は漆で模様を描いて金箔を貼り付ける仕上がりの華やかな技法である。また現在最も多く生産されている堆錦は、顔料と漆を混ぜた堆錦餅を薄く延ばして模様を切り抜き、器物に貼り付ける立体的でカラフルな沖縄独特の技法である。


特徴

亜熱帯の風土の中で育まれた琉球漆器は、技法の多さや表現力のおおらかさ、またその美しさや丈夫さにおいて、他に例を見ないと高く評価されている。軽くて狂いのないデイゴやエゴノキは丈夫でおおらかな漆器の基になった。高温多湿の気候条件は厚くて艶やかな塗面を育てるとともに、独自の堆錦を誕生させた。豊富な紫外線を受けて発色した朱のあざやかさは琉球漆器の特徴である。また朱漆螺鈿や朱漆沈金は沖縄の明るさによく調和し、朱と黒の大胆なコントラストもまた、近年の琉球漆器の大きな特徴の一つになっている。

『沖縄県工芸振興センター』より

琉球漆器歴史年表

古琉球 琉球漆芸主要事項
1372年 明朝へ金銀粉匣・櫂子扇・殻を貢ず
1406年 明朝へ中山王より謝恩の為、漆塗鞘刀剣、螺殻などを進上(以後中国朝貢・冊封の国交は1874年まで続き多数の漆工品が中国へ贈られる) 暹羅(現タイ)へ交易の為、織物・磁器・腰刀・摺紙扇を進上(以後暹羅との交易は1570年まで続く)
1428年 明使節紫山、琉球にて生漆270斤購入
1429年 琉球王国成立(三山統一)
旧港(現インドネシア)へ織物・磁器・腰刀・摺扇などを進上(以後旧港との交易は1440年まで続く)
1430年 爪哇国(現インドネシア)へ織物・磁器・腰刀などを進上(以後爪哇との交易は1442年まで続く)
1431年 琉球は明の指示で、生漆など隣国産有地へ購入に行ったが、船が遭難、沈没し、預かった銭も返還不能となる
1432年 明より琉球へ先年に破損した船の責任は問わず、更に生漆や腰刀など購入の勅諭が届く
1458年 足利義政に剔金菓子盆を贈る
1463年 満利加国(現マレーシア)へ礼物献上として織物・磁器・腰刀・扇などを進上(以後満利加との交易は1511年まで続く)
蘇門答刺国(現インドネシア)へ礼物献上として織物・磁器・腰刀・扇などを進上(以後蘇門答刺との交易は1468年まで続く)
1470年 第二尚氏(尚円)王統が始まる
1478年 朝鮮漂流民、那覇の国王行列における漆輦、寺院内漆塗を実見する
1500年 百按司墓内にこの年の年号(弘治13年)を記した朱漆金巴紋木棺あり 久米島の君南原祝女(ノロ:祭司者)へ八重山征討の功績として、沈金丸櫃・小櫃を与える 現存
1509年 安南国(現ヴェトナム)へ使節派遣礼物として腰刀進上
1523年 奄美大島笠利の祝女へ沈金丸櫃を与える 現存
1529年 奄美大島笠利宇宿の祝女へ沈金丸櫃を与える 現存
1579年 沖永良部島の森家に沈金丸櫃与える 現存
1585年 島津義久へ朱漆花鳥食籠台付・漆絵密陀花鳥盤20贈る
1590年 オーストラリア・ハプスブルグ家、この年の遺産相続目録に朱漆花鳥箔絵椀あり 現存
1600年 徳之島手手祝女へ沈金丸櫃を与える 現存
1609年 薩摩(島津氏)の侵攻島津家久、家康、秀忠、福島正則らに唐板屏風・食籠・唐折敷・硯屏などを贈呈する
1610年 尚寧王、島津氏と共に江戸に上り、家康、秀忠へ食籠・唐盤など多数献上(以後1850年までの18回に及ぶ江戸上りの際に、将軍や大名へ漆器を贈呈する)島津氏が琉球の漆樹を上木(浮得税)とする
近世琉球 琉球漆芸主要事項
1611年 尚寧王、京都の袋中上人へ漆工品7点を含む30点余の品目を贈る
現存毛泰運(保栄茂親雲上盛良)が貝摺奉行に任命される
1616年 家康の遺品分与帳に多数の琉球漆器が記載される
1617年 家康の側室正木氏、朱漆牡丹紋鳳凰七宝繋沈金盃・盃台を妙法華寺に奉納
1626年 1628年まで、3回にわたり島津氏が琉球へ多量の茶道具の注文をする
1635年 上木7品目の米による代納開始
漆樹1本に付き米3合づつとなる
1641年 曾氏国吉、びんで螺鈿法を学び帰国、貝摺師となる
1644年 中村渠、薩摩で檜物師に学び帰国、檜物主取に任命される
1658年 琉球王より千宗旦に青貝香合を贈る 現存
1671年 尾張光友に黒塗梅七宝繋箔金絵沈金三足丸盆10進上
1686年 王府が八重山に漆があるとの情報確認の為の文書あり(以後同文書には八重山における漆の植栽育成に関する記録が1731年まで続く)
1690年 大見武憑、清に渡り煮螺の法を学び、螺鈿技法に大きな変革をもたらす
1699年 漆樹に関する上木税、免ぜらる
1713年 貝摺奉行・漆器(若狭町塗ノ器具等)など漆工芸に関する記録あり
1715年 房弘得(比嘉筑登之親雲上乗昌)堆錦を考案し賞賜を受く。しかし、堆錦の語句は古くから用いられているため、堆錦を大きく工夫改良したと解される
1725年 中山王より清へ黒漆嵌螺五爪龍椀30・黒漆嵌螺五爪龍盤30進上
1742年 貝摺奉行所仕様帳の、楼閣山水貝摺食籠飯及び台・蒔貝地ニ貝片散貝摺文台硯箱等4点、この年製作の記述あり (以後1848年まで同帳に製作漆器の記述あり)
1774年 平戸松浦氏、朱漆山水楼閣人物箔絵楕円盆に琉球製の箱書あり
現存貝摺師3名、木地匠3名を薩摩に遣わす
1796年 この頃中山王府式楽楽器一式を尾張家・水戸家へ贈る 現存
1827年 「大和へ御進物道具図并入目料帳」が作成され進物用漆器の仕様の記述あり(以後同帳には1829年、1870年に大和への進物用漆器についての記述あり)
1849年 英国人宣教師ベッテルハイムが、英船へのみやげ用として、大形弁当・黄塗大形多葉粉盆などの漆器を首里王府に依頼し贈呈さす
1854年 ペリー一行が、朱漆硯蓋・朱漆菓子皿・朱漆七寸重箱・黄塗茶台・黄夜食膳・弁当などを首里王府の許可を得て購入す
1856年 漆樹の種を琉球へ移植する方法についての記録あり
1872年 琉球国から琉球藩となる
沖縄県 琉球漆芸主要事項
1879年 琉球処分、琉球藩から沖縄県となる貝摺奉行所解体される
1889年 沖縄県農商課長石沢兵吾『琉球漆器考』をまとめる

『琉球漆器考』より