琉球古典音楽

琉球古典音楽
Ryukyuan Classical Music



赤田風節(あかたふうぶし)
うた・三線/城間徳太郎、箏/城間安子
2006年[平成18年]5月7日
人間国宝認定記念公演


琉球古典芸能の起源

沖縄は、西暦1429年から1879年(明治12年)までの450年間、琉球と呼ばれる独立王国であった。東アジアの小国であった琉球は、超大国であった明(みん、現在の中国)に王国として認めてもらい(冊封 さっぽう)、当時、海禁策(一種の鎖国政策)を取っていた明の代わりに、東南アジア諸国の胡椒や漢方薬の原料となる蘇木(すおう)などの産品を明に持ち込むというような中継貿易国として盛んに交易(朝貢貿易 ちょうこうぼうえき)を行い、独立国を維持した。
明の冊封制度に応じた国々(朝貢国と言われ、朝鮮、ベトナム、タイ等)には、自国の国王が代わるたびに、中国皇帝から冊封使(さくほうし・さっぽうし)が派遣された。琉球王国は450年の間に24回の冊封を受けた。
冊封の儀式では、冊封使以下400~500人が琉球を訪れ、5か月ないし8か月滞在したので、琉球王国にとって、彼らを受け入れることは最大の外交行事であった。踊奉行(をぅどぅいぶじょー)という国の役職を設けて、冊封使をもてなすための芸能の指導と総監督に当たらせた。
冊封使一行が乗ってくる船は、中国皇帝から賜る冠や衣服が積まれていたことから御冠船(うくゎんしん)と呼ばれ、使者たちをもてなすために首里城で披露される音楽や舞踊や劇は御冠船踊(うくゎんしんをぅどぅい)と呼ばれるようになった。


琉球王朝(1429~1879年)の宮廷音楽として発達した音楽である。琉球は、14世紀に当時の明国(現在の中国)より正式な使者を迎えて以来、冊封使と呼ばれる使者を歓待するため、宮廷芸能「歌三線、舞踊」は発達した。現在に伝わる三線音楽の基礎は、現在の湛水流の始祖、湛水親方幸地賢忠(たいすいうぇーかた こうちけんちゅう1623~1683年)により確立したといわれている。「歌三線」では、ニシキ蛇の皮が張られた三線を、歌を歌いながら演奏する。歌は、「琉歌形式」と呼ばれる八八八六の30文字や、五五八六の24文字からなる「仲風形式」などで構成されている。


• 短歌形式短歌

八八八六の30文字

次の例のように8文字、8文字、8文字、6文字からなる歌。「しゃ」「じゃ」「てぃ」「でぃ」「ちゃ」「ぐぅ」「とぅ」などは1文字と数える。
別名「サンパチロク」とも。上句八・八、下句八・六の、三十音の定型。最も一般的形式。

かぎやで風節[かじゃでぃふうぶし]
今日の誇らしや[きゆぬふくらしや 8文字]
何にじゃな譬る[なよぅにぢゃなたてぃる 8文字]
譬で居る花の<[つぃぶでぃよぅるはなぬ 8文字]
露行逢た如[ちぃゆちゃたぐとぅ 6文字]


【歌意】
今日の欣喜(よろこび)を
何に譬えようか。
あたかも花の譬が
露を受けて輝く如し。


• 短歌形式仲風

五五八六の24文字(又は七五八六の形式)

次の例のように5文字、5文字、8文字、6文字からなる歌。
二六または二四音の定型。上句~和歌調、下句~琉歌調。

仲風節[なかふうぶし]
語いたや[かたいたや 5文字]
語いたや[かたゐたや 5文字]
月の山の端に[つぃちぬやまぬふぁに 8文字] 
かかるまでも[かかるまでぃん 6文字]


【歌意】
語りたい、とても語りたい
月が山の端にかかるまでも。


• 長歌形式長歌

八八八六音の連続で末句が六音


• 長歌形式(つらね)

八八音の連続を基調にし長歌よりもながく末句が六音。
長歌より長い。例~歌劇「泊阿嘉」の「つらね」など。


• 長歌形式木遣り(きやり)

八八音の連続で八音の間に囃子(ハヤシ)が入る。


• 長歌形式口説(くどぅち)

七五音の連続で和文調


【例】
上り口説、下り口説、高平万歳、四季口説など。


玉城朝薫の登場と組踊

1719年、時の尚敬王の冊封使を迎える宴(戌の御冠船)では、踊奉行玉城朝薫(たまぐすくちょうくん、1684~1734年)が創作した「組踊(くみをぅどぅい)、『歌三線(音楽)、唱え(せりふ)、踊り(舞踊)』を総合した楽劇」として、「二童敵討(にどうてぃちうち)」と「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」が上演された。玉城朝薫は、他に「銘刈子(めかるしー)」、「女物狂(おんなものぐるい)」、「孝行之巻(こうこうのまき)」という作品を残し、これらは「朝薫の五番」と称されている。朝薫の組踊には、当時の大和の能や歌舞伎といった芸能の影響が色濃く見られ、朝薫が参考にした原作と朝薫作の表現手法の違いの中に、「朝薫的なもの」、「沖縄的な解釈」といった個性や独自性を見ることができる。朝薫以外の作者による組踊の作品としては、平敷屋朝敏(へしちやちょうびん)の「手水の縁(てみずのえん)」は特に有名で、現代でもよく上演されている。組踊は1972年に国指定重要無形文化財に指定された。


江戸上りと琉球古典芸能の発達

琉球は、1609年から1879年までの270年間、薩摩藩(現鹿児島県)の支配下にあった。明との朝貢関係(主従関係)は維持しながら、薩摩を通じて徳川にも忠誠を誓っていた。薩摩藩には、毎年春に年頭使という使者を派遣し、また慶弔事が起こった場合には特使を派遣する慣わしになっていた。その際の儀式や、琉球に派遣された薩摩役人の宴席などで、琉球芸能は披露された。
さらに、琉球からは、徳川将軍が代わるたびに慶賀使という使者、琉球王が代わるたびに謝恩使という使者を江戸に派遣するようになった。これを江戸上りと称し、約220年の間に18回行われた。その際にも同じように琉球芸能が披露された。このような事情から、薩摩上り及び江戸上りは、当時の琉球古典芸能の発展に大きな影響を与えたと考えられる。先の玉城朝薫も、薩摩・江戸を計7度も往来している。そのほかに、宮廷音楽として路次楽や御座楽がある。今日では、これらの芸能を総称し、琉球古典芸能と呼んでいる。


*路次楽(ろじがく):中国から伝えられた道中楽、首里城内での儀式や国王が場外へ出かける時、また江戸上りの際に行列をしながら演奏した。
*御座楽(うざがく):中国から伝えられたもので野外演奏の路次楽に対し、室内楽である。江戸上りや冊封使の歓待のために演奏された。





シーサー