織物

芭蕉布 Banana Fiber
芭蕉布は沖縄伝統の高級織物で、バショウ科の多年草糸芭蕉から採取した繊維を使って織られた布のことで、別名蕉紗ともいう。
沖縄県および奄美群島の特産品で、薄く張りのある感触から、夏の着物、蚊帳、座布団など多岐にわたって利用される。おおよそ500年の歴史があるとされ、琉球王国では王宮が管理する大規模な芭蕉園で芭蕉が生産されていた。
庶民階級ではアタイと呼ばれる家庭菜園に植えた芭蕉で、各家庭ごとに糸を生産していた。現在の沖縄島では大宜味村喜如嘉が「芭蕉布の里」として知られる。
一反の芭蕉布を織るために必要な芭蕉は200本といわれ、葉鞘を裂いて外皮を捨て、繊維の質ごとに原皮を分ける。より内側の柔らかな繊維を用いるものほど高級である。灰によって精練作業を行うが、芭蕉の糸は白くはならず薄茶色である。無地織か、ティーチ(シャリンバイ)の濃茶色で絣を織るものが県外では一般的な芭蕉布と認識されているが、沖縄では琉球藍で染めたクルチョーと呼ばれる藍色の絣も人気が高い。連合国軍の保障占領下で進駐したアメリカ軍によって「蚊の繁殖を防止する為」として多くのイトバショウが切り倒され、絶滅の危機に瀕している。近年では、紅型の特徴的な美しい黄金色を染めるフクギやアカネ、ベニバナを用いることもある。
1974年に沖縄県大宜味村喜如嘉の芭蕉布が国の重要無形文化財に指定されている。
芭蕉布が成長するのにおよそ3年くらいかかる。年に3・4回、繊維を柔らかくするために葉と芯を切り落とし茎の芯が一定になるように育てる。
秋から冬にかけて行われる糸芭蕉の収穫。成熟し根元がぐらぐらする木を選び、一本一本丁寧に口割りという作業を行う。
口割りとは、玉ねぎのように皮が重なり合っている茎を一枚一枚剥いでいき、表の柔らかい部分だけを使用するため、表の皮だけを剥いでいく作業である。
芯に向かって柔らかくなっていく特性を利用し外側から、テーブルセンターなどに使うウヮーハー。帯などに使うナハウー、着物に使うナハグー染色用に用いるキヤギに分けていく。
収穫した苧を種類ごとに分け、木の灰で作った木灰汁で炊く。アルカリ性の木灰汁で炊くことで繊維を柔らかくしていくのだが、アルカリ性が強すぎると繊維が切れてしまい、逆に弱すぎると煮えないので熟練の職人でも非常に難しい作業の一つである。
柔らかくなった苧をエービといわれる竹ばさみでしごくと艶やかな繊維が現れる。柔らかいものは緯糸に、堅いものは色の付いたものは縦糸に繊維を選り分けていく。
そして選り分けられた糸を乾くまで風の当たらない日陰で干しておく。
乾いた繊維を親指に巻き付けながら丸め「チング」を作る。芭蕉布で一番時間と技を必要とする作業が苧うみである。あらかじめ水につけて湿らせた繊維(チング)を根元の部分から細く裂いていき糸状にしていく。そして結び目を小さく目立たないようにして、色も細さも変わらない均一の一本の長い糸にしていく。
必要な絣や寸法をあらかじめ計算し図案を描いていく。描き出される文様は身近な自然や生活の中から生み出され、現在では数百種類もあるとのことである。
湿気を与えながら糸に撚りをかけていく撚り掛け。縦糸と横糸の毛羽立ちを防ぎ糸を強くするために行われる。そして、出来上がった糸を糸の配列にしたがって必要な本数と長さを揃えていく整経作業に移る。
染色用の糸は、染める前に木灰汁で再度煮ることで柔らかく染めやすくしていく。そして、染める部分を予めずらして固定し、まっすぐにひっぱり直し、染めない部分をウバサガラ(芭蕉の皮を乾かしたもの)とビニール紐を巻き丁寧に結んでいく。
染色は糸の一本一本にしみ込むように丹念に行われる。喜如嘉の芭蕉布に使用している主な染料は想思樹と琉球藍という天然の染料を用いる事が多いそうである。そして、藍の色を出すための発酵環境を一定に保ちながら必要に応じて水あめと木灰汁と泡盛を入れながら藍の発行を促す。
必要な糸が揃ったら縦絣と地糸を組み合わせ「おさ」に一旦通す仮おさ通しを行い、端の方をマチャと呼ばれる棒に巻き付け糸の並びがずれないように巻き取る。その後、そうこう通し・おさ通しを経て織りの準備が整う。
芭蕉の糸は乾燥すると切れやすくなるので梅雨時期か絶えず湿気を与えられる環境で一つ一つの絣を丁寧に織り上げていく。
喜如嘉の芭蕉布は織りあがった生地を強くしなやかにするため「洗濯」という工程を行う。
織りあがった反物を水洗いし、木灰汁で煮て再度良く水洗いして乾かした後、米粥を発酵させてつくったユナジ液に浸す。切れやすい糸から生まれる芭蕉布であるが、仕上げの洗濯を行うことで、強くしなやかな布に生まれ変わる。
ただ偽りのない仕事を |
芭蕉布作り |

平良敏子氏
人間国宝
(重要無形文化財「芭蕉布」の保持者)
・1921年 | 沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉に生まれる |
・1965年 | 沖縄タイムズ文化賞受賞 |
・1969年 | 日本民藝館賞受賞 |
・1973年 | 日本民藝館展日本民藝館賞受賞、第1回沖縄民藝振興展最優秀賞受賞、沖縄タイムス賞受賞 |
・1974年 | 労働大臣より卓越技能賞受賞(現代の名工) |
・1975年 | 「喜如嘉の芭蕉布」が国の重要無形文化財に認定、東京都教育委員会賞受賞 |
・1976年 | 文化庁より表彰を受ける |
・1978年 | 第2回全国伝統工芸展に出品、通産大臣賞受賞 |
・1979年 | 日本民藝館展に出品、第1回日本民藝協会賞受賞 |
・1980年 | 黄綬褒章を授与される、伝統工芸品産業振興協会会長賞受賞 |
・1981年 | 第1回伝統文化ポーラ大賞受賞 |
・1983年 | 第7回伝統工芸品展に出品、協会賞受賞 |
・1986年 | 講談社より吉川栄治文化賞受賞 |
・1990年 | 通産大臣より表彰状を受ける |
・1991年 | 第38回日本伝統工芸展日本工芸会奨励賞受賞 |
・1992年 | 勲五等宝冠章を授与される |
・1994年 | 沖縄県より功労者表彰を受ける |
・2000年 | 「芭蕉布」重要無形文化財技術保持者に認定される |
・2002年 | 勲四等宝冠章を授与される |
琉球紅型 Ryukyu Bingata ![]() 読谷山花織 Yomitanzan Hanaori ![]() 読谷山ミンサー Yomitanzan Minsa ![]() 知花花織 Chibana Hanaori ![]() 首里織 Shuri Ori ![]() 琉球絣 Ryukyu Kasuri ![]() 久米島紬 Kumejima Tumugi ![]() 宮古上布 Miyako Jofu ![]() 与那国織 Yonaguni Ori ![]() 八重山ミンサー Yaeyama Minsa ![]() 八重山上布 Yaeyama Jofu ![]() 南風原花織 Haebaru Hanaori ![]() |
琉球紅型
約15世紀頃から存在していたと考えられ中国、朝鮮、日本、ジャワ・スマ トラ・パレンバン(インドネシア)、シャム(タイ)などの東南アジアとの交易の中で様々な技法を取り入れ、発展させていったと考えられる。
書物で紅型を指したのではないかとみられるものとして「李朝実録」では「紀白(1456年)」、 「彩絵(1479年)」と記され、天順7年(1463年)に朝鮮に派遣された琉球の使節が「琉球の男は斑爛之衣(彩りの美しい模様の衣)を着る」と述べており、「使琉球録(1534年)」には「彩服・彩段」とある。
紅型(または紅型を制作すること)を表す「型附」の文字が初めて登場するのは「尚氏 家譜」の(崇禎12年=1639年)、「琉球国志略(1756年)」には「白絹に文様を染める者がいる。また5色を用いて生地を染める者もいて、皆自ら着用している。そして贈物や商売にはおおむね染色しない地色のままの生地を用いる」とある。
他にも「おもろさうし(1532年)」、「馬姓家譜(乾隆16年=1751年)」、「球陽」巻15尚穆王16年(乾隆32年=1767年)、巻16尚穆王31年(乾隆47=1782年)、「使琉球記(1802年)」などに記述がみられる。
読谷山花織
15世紀インドなどの南方系から伝わったと考えられ、「歴代宝案」成化6年(1470年) に琉球が「棋子花異色手幅二条、彩色糸手幅二条、綿布染手幅二条」を朝鮮に贈ったことや、成化16年(1480年)シャム国から琉球国に「手幅織花糸黄布一条」が贈られたと記されているが、直接読谷山花織に結びつく記述は少なく詳細は不明である。
読谷山花織は綿を素材にした浮織の一種で、綿衣(袷の着物)、胴服(筒袖の短衣)に使用された。紋綜絖(花綜絖)による緯浮の「綜絖花織(浮織)」技法で、模様は藍地に白・赤・黄色・緑の緯浮糸で織られ、 模様を花に喩え花織といわれる。現在では着尺と帯として約30種類の花模様があり、 基本柄として銭花、風車、扇花が知られる。
読谷山手巾も織られており、紋綜絖(花綜絖)による経または緯の浮織による「綜絖花」と、経糸を竹ベラですくい色糸を縫い取り模様を作る「手花織または縫取織)」の二つの技法を使っている。
手巾とは本来女性が肩や髪にかける手ぬぐいであるが、女性が愛する男性のため思いを込めて織った想い手巾と、 兄弟が旅に出るとき旅の安全を願い姉妹(沖縄では古くから女性は家族の守り神と考えられていた)が織った姉妹手巾(祈り手巾)がある。
首里織
14~15世紀の琉球国は、中国や東南アジアとの交易の交流により、染織の技法を学び、幾百年と積み重ねられた人々の努力によって、沖縄の気候風土に根ざした多種多様の琉球織物の個性を生みだした変化に富んだ多様な織が特徴で、 花倉織、花織、道屯織、手縞、綾の中、諸取切、花織手巾、煮綛芭蕉などがあり、首里で身分の高い人々に着用される織物であった。
琉球王朝につかえる絵師の描いた図案をもとに、各島々の婦女子が「布織女」として布を織り、これが御用布として献上されたものである。
また、士族階級の女性が家族のために織ったともいわれ、王妃や王女なども糸を紡ぎ機に向かっていたようである。
献上布のすべてが王府へ収集されたことから、士族の婦女子は高度な技法を学んだものと思われ、首里には数多くの技法が現在まで伝えられている。戦争ですべてを失った沖縄に長い間受け継がれてきた織物の伝統も、これで消滅してしまうのではないかと心配されたが、近年、ようやく後継者も育成され、再び文化の華が咲きつつある。昭和49年には「本場首里の織物」が県無形文化財の指定を受けたことで、首里から王朝時代の文化がよみがえり、首里の伝統的な技法も若い人々に受け継がれた。又、昭和51年7月には那覇伝統織物事業協同組合が設立され、活発な振興が図られている。
久米島紬
絹を原料とした織物で、15世紀頃堂之比屋が中国から養蚕技術を学び伝え、「上江洲家家譜」、「琉球国旧記(1731年)」によると万暦47年(1619年)越後の宗味入道(琉球名:坂本普基)が沖縄に渡り、尚寧王の茶道職を勤める傍ら養蚕技術を得ていたため王の命により久米島に養蚕技術を伝えたとされる。
他に「仲里旧記(1706年)」、「琉球国由来記(1713年)」、「琉球国旧記(1731年)」、「具志川旧記(1743年)」に久米島紬に関連する記述がある。
久米島紬の染料はテカチ(車輪梅)、グールー(サトリイバラ)を泥媒染したもので仕上げに砧打ちで風合いを出す。 焦茶色の地色が一般的だが、上江洲家の御用布裂地帳によると王府時代の久米島紬(御用布)には、 ユウナを使ったグーズミ染めによる灰色絣や地色に 紅・黄色・藍など多くの色も存在していた。
宮古上布
苧麻を原料とした織物で、宮古上布の起源は稲石という女性が、 進貢船を難破から救った夫の昇進に感謝し、尚永王に「綾錆上布」といわれる布を織り、献上したことにはじまる。苧麻などの繊維から糸をつくることを績むという。
染料には藍を使用した紺地の上布が特徴である。絣模様を1本1本指先で揃える緻密な柄が織られた。明治期に奄美より締機を用いた絣技法が導入され、細かな十字絣の「蚊絣」による宮古上布が織られるようになった。
与那国織
「李朝実録(1477年)」に与那国島に漂着した朝鮮人が、与那国や黒島では苧麻で布を織り染料には藍を用いていると記されており、15世紀後半には織物が存在していたようである。
原料は苧麻、芭蕉、木綿、絹などで絣はほとんど見られない。苧麻に木綿などの経縞格子など庶民の仕事着となる与那国ドゥタティ、 10種類もの花柄を幾何学に織る与那国花織、経縞の中に夫婦を白絣で現すミンサー織の与那国カガンブー、緯糸を織り柄を浮き出させる手巾の与那国シダディがある。
八重山上布
起源は定かでないが、薩摩の貢納布のため織られたことがはじまりと考えられる。宮古上布同様厳しい人頭税の下、八重山の女性達も過酷な労働を課せられた。貢納布として宮古島は藍地・八重山は白地を織るよう指定された。
原料は苧麻で絣は手括りのものと、染料に紅露を使い刷毛で直接糸に摺り込む(捺染) 摺込絣がある。仕上げに海水に晒す海晒しによって白地はより白く、絣の色はより濃く仕上げられる。
ミンサー
綿(中国語でミン)、狭で、綿狭帯の細帯を指す。沖縄では古来から衣服の着用に帯は用いず、腰紐に着物を押し込むウシンチーという着用法が一般的であるが、厳しい労働に従事する庶民は着物が解けないよう藁帯などの帯をきつく締めていた。田舎は自由恋愛による婚姻制度であったため、女性が想いを寄せる男性に帯を贈り、毛遊び(若い男女が月夜の下、農作業後に野原に集い三味線に興じ唄い踊る出会いの場)で男性が女性から贈られた帯を締め、互いの愛情を確認しあう証として織られていた。男性は結び目を後ろにし、女性は前で結んでいた。
竹富島の竹富ミンサーや小浜島の小浜ミンサーは絣が5つ玉と4つ玉が1対で、配偶者となる男性に「いつの世までも末永く…」という願いを込めて贈られた。帯の両端の縞はムカデ文様で「足繁く通う」という意味であるが、いつ頃からこのような柄が織られていたか不明である。
柱に糸を結びつけ織った花柄が特徴的な読谷山ミンサー、藍染の無地のミンサー、那覇ミンサー、 綾中に鳥くずし絣文様の与那国ミンサーなど沖縄各地で細帯が織られていた。 奄美大島では、女児の織り遊びとして、細帯が織られていたという記録がある。
参考:沖縄県立図書館