琉球獅子舞

琉球獅子舞
Lion Dance of the Ryukyu


獅子舞は旧暦6月から8月にかけての豊年祭や旧盆に行われる。三線や太鼓の演奏に合わせて舞い、最近では、エイサーの演舞の中に取り入れていることもある。悪霊を祓い、弥勒世(ミルクユー)を招き、五穀豊穣・子孫繁栄や地域の繁栄をもたらすと言われ、沖縄各地で受け継がれている。その型と獅子の特徴などは、各地域によって異なり、県内には約180近くの獅子舞があるようである。特に旧具志川市(現うるま市)には、昔、獅子が住んでいたという獅子山があり、7つの字(地区)で伝統的な獅子舞が保存されている獅子に縁が深い土地だとされている。「魔よけ」の意味合いが強く、獅子が守護神となり、病気の元凶や悪魔を退治するとされている。
沖縄の獅子舞は、胴も足も芭蕉の繊維で作られた気ぐるみ風の装いの中に二人一組で入り、また、獅子頭は材質の軽い梯梧(でいご)の木で作られている。一頭の獅子に対して、獅子遣い役(ワクヤー)が棒や駒をもって獅子をあやしたり、挑発したりする様子が多く見られるが、もともとは、雄獅子と雌獅子がペアで舞っていた。
この獅子舞が、本土からきたのか大陸から輸入されたのか、またいつ頃伝わったのかも定かではないが、演目や様式の広さから一度のみの移入ではなく、さらに大陸文化も本土文化も習合されたものという説が強いようである。


国選択無形民俗文化財

勢理客の獅子舞 浦添市勢理客

旧暦八月十五夜、十七夜の豊年祭に演じられる沖縄本島の獅子舞を代表する芸能である。沖縄の獅子舞は、古く中国大陸から直接伝来したもののようで、獅子頭は梯梧の材で彫刻し、胴部は棕梠縄に芭蕉や苧麻の繊維をまぜたもので縫いぐるみに仕立てる。
 舞い手は前足役と後足役の二名で、沖縄本島では一頭、宮古諸島や八重山諸島では二頭出ることになっている。これが、ドラや太鼓、笛、ホラ貝などの囃子にのって、獅子ワイヤーなどとよぶ獅子あやし役の導きでいろいろに舞うのだが、沖縄本島では一般に毬遊び、棟喰い、シラミかき、寝返りなどの曲技、ものまねの演技を細かく演じる形が普及している。その中で、多くの型を正確に保存しているのが勢理客の獅子である。

操り獅子(あやつりじし:操りの獅子舞) 名護市川上、国頭郡本部町伊豆味、国頭郡今帰仁村謝名

名護市川上、国頭郡本部町伊豆味、同郡今帰仁村謝名の沖縄県下三か所での伝承が確認されている糸操りの獅子舞である。いずれも、豊年祭の奉納踊りの最終演目として操られている。

 川上の豊年祭は、以前は毎年旧暦の八月八日をショウニチ(正日)として行われていたが、現在は不定期である。平成15年においては、九月七日の晩、地区の公民館舞台において、16演目の芸能が奉納された。その最後の演目が操り獅子である。また、奉納踊りはショウニチを挟んだ三日間行っていたが、現在はショウニチの一日のみ行うことになった。

伊豆味の豊年祭は、五年マール(実施年から数え始めて五年目ごと)で実施され、旧暦8月9日、11日、15日の三日間、奉納踊りが踊られている。このうち操り獅子は11日、ショウニチの最終演目である。

 謝名の豊年祭は、伊豆味と同様に五年マールで行われ、奉納踊りは旧暦8月9日、11日、13日、15日、17日に行われていたが、踊り手の若者が少なくなったことなどから、近年は旧暦8月15日だけ行うようになった。操り獅子は、ここではアヤーチと呼ばれ、他と同様最後の演目である。その由来等については不明であるが、地元では300年くらい前から伝わっているといわれている。

 川上、伊豆味、謝名の各操り獅子は、その操作方法など基本的に共通している。

 操り獅子は、奉納踊りが上演されるバンクと呼ばれる舞台上に、獅子を遊ばせる小さな台を設けて行われる。雌雄二頭の獅子は、この台の真ん中に吊り下げられた玉を中心に向かい合うように置かれ、三線などによる音楽の演奏が始まると、最初はゆっくりと、しだいに激しく身体を動かし、玉に飛びつくような所作も見せ、演技は最高潮に達する。川上では軽快な「伊計離節(いちはなりぶし)」を伴奏音楽としている。伊豆味では「あっちゃめーぐぁー」が用いられており、同じメロディーを繰り返し、だんだんとテンポを早めて終わる。三線、銅鑼、太鼓、拍子木等で演奏され、床を叩いたりして囃すこともあるという。

 糸操りの操作は、獅子一頭につき一人が行う。獅子の頭部と臀部には一本ずつの糸が結び付けられており、この一頭につき二本の糸は、舞台の天井に取り付けられた竹などの棒の上をわたされ、獅子が遊ぶ台の後方に延ばしてある。操作者は舞台後方に控えており、両手に糸を握り、激しく上下に動かすなどして獅子を操る。大変な力を要するため、合間合間に交代しつつ操るが、獅子の動きを止めないようにしなければならない。また、中央に吊り下げられた玉にも一人の操作者が付き、玉を上下に揺らす。獅子が遊ぶ台の背後に幕を垂らし、操作者はその後ろで操作する。

 獅子は、竹ひごと縄で骨格を作り、竹ひごと縄に糸芭蕉を結び付けて胴体とする。操るためには多少の重みが必要となるため、やはり竹ひごと糸芭蕉で作った四本の足先に、硬貨を数枚結び付け、同時に音の効果も得る。頭は重量の軽いデイゴの木を用いることが多い。いずれにしても手作りであり、その時々で入手可能な材料を組み合わせて作り上げる。

 なお、伊豆味では、獅子を動かすときには、神役を通じ、神に伺いを立てなければならず、了承を得られなければ動かすことはできないとされている。


県指定無形民俗文化財

謝名のアヤーチ獅子(糸操りの獅子舞) 今帰仁村

操り獅子は、今帰仁村謝名のほか名護市川上、伊豆味の3カ所だけに伝わる。全国的にも他の地域では見られないとして、記録保存が必要な無形民俗文化財に3地域が一緒に選定されている。


市指定無形民俗文化財

天願獅子舞 うるま市

首里城下で御殿奉公をしていた若者が、中国からの冊封使歓待の御冠船踊りの獅子舞を見て魅了され、その演技を習得して郷里へ持ち返ったところ、天願の長老に頼まれ伝授したのが始りと言われている。
戦後3年間(戦災で獅子焼失)の一時期を除いては、 現在に至るまで保存会を中心に保存・継承を行っている。
舞い型は獅子舞の前に古来より伝わる「天願棒(でんぐわんぼう)」の棒術で露払いを行い、カリーをつけた後、ワクヤーの童子が踊って獅子を誘いだす。獅子はワクヤーを追って飛び出し、激しく身を震わせて舞いはじめ、右左に寝返りをうった後、ワクヤーが落とした毬と総(みな)とを結んだひもを口にくわえて仁王立になり、一回りする技は、威風堂々として、あたりを圧する。音曲にのせて約十種の技を演じた後、静かに振り返りつつ、未練たっぶりに退場していく獅子の表情と姿が観衆をひきつける。
毎年旧暦の7月16日に天願太郎治の神殿前と祝女殿内の神殿前で踊る。

普天間の獅子舞 宜野湾市

16世紀の中頃、琉球物語で有名なチーグ王である尚元王から村興しの神として普天間村に送られたことから始まったとされ、災いや厄を祓い、部落の発展と豊年満作を祈願する目的で催されている。獅子舞の所作は、頭を左右後方の順に曲げ、尻を掻き、ハエ取りのまねやマリとたわむれるなど、細かい芸や演劇的な動作により構成される。
戦前の獅子舞は、銅鑼と太鼓をたたきながら部落内をまわり、普天満宮へ行き、お祈りをした後、その境内で奉納されたが、戦後は、字普天間郷友会の手で保管と演技が毎年旧暦毎年7月13日と15日の両日と、5年ごとに旧暦の8月15日にも行なわれている。

大謝名の獅子舞 宜野湾市

旧暦の八月十五夜、地区内の道路や公民館前の広場で行われている大謝名の獅子舞は、戦後、長い間行われなかったが、伝統文化を残そうとする人々の願いがかない、1976年になって、33年ぶりに復活した。獅子舞の所作は、四方に2回、中央で3回かみつく動作でもって吠える素朴で勇壮な踊りが特徴である。

仲西の獅子舞 浦添市

古老の語るところによれば、古くからムラの行事の一つとして行われてきたようだ。
獅子舞は旧暦の7月15日と8月15日のムラ遊びの日に演じられてきた。獅子を舞わせることにより、あらゆる災いや悪霊をはらい、幸せや五穀豊穣を願い、ムラがますます栄えることを祈った。
仲西の獅子舞の特色は、雄獅子であり、顔の表情がいかめしく、舞が力強いところにある。
舞の種類は九演目あったようだが、現在では「マーイクャー」、「ボームタバー」、「シランガチ」、「ジェークーヤー」、「ジュークーヤー」、「マーイムタバー」、「ホーヤー」、「ケーヤー」の八演目が伝えられている。

内間の獅子舞 浦添市

尚真王時代およそ450年前茶貫幹丸(ちゃぬちぬちまる)によって作られ、毎年旧暦8月15日の夜(十五夜祭)、村の厄払いと子孫繁栄、部落の発展を祈り演じられている。特徴としては雌獅子であること、芸が細かく、勇壮な演技であることがあげられる。

首里汀良町の獅子舞 那覇市

県下最古の歴史持ち、尚巴志王代に汀志良次村に住民を移住させことが始まりと言われている。空手の型を基本とし、激しく打ち鳴らすドラ鐘の響きに躍動し、仁王立ちになり「魔物」をにらみつける勇猛さは静と動を見事に表現している。昔から村の守護神とされ、旧暦8月の十五夜には、町内・町民の安全・繁栄を祈願し、道ジュネー(町廻り)をして町内を清めている。

首里末吉町の獅子舞 那覇市

約250年の歴史を持ち、平良の獅子と末吉のガン(棺桶を担いで運ぶ、琉球伝統の葬具)を交換したのが始まりだと言われている。毎年旧暦の8月15夜には町に入ってくる邪気を追い祓う舞、「御美御拝(ウヌフェー)」が野呂殿内にて奉納される。末吉公民館には「神獅子」と呼ばれ、末吉町から外へは出ない門外不出の獅子が鎮座する。

大嶺の獅子舞 那覇市

獅子舞はいつ頃伝わったかは詳しくは分かっていないが、非常に古くから大嶺の守護神として大切にされてきた。他の地域の獅子像の目は固定されているが、大嶺の獅子は演舞に合わせて両目が動くことが特徴である。毎年旧暦7月13日、7月15日、8月15日に行なわれている。

松原の獅子舞(シーシャ) 平良市(現宮古島市)

毎年旧暦の5月4日に行われるハーリー(海神祭)の際、ズガキと称する海岸端の広場で海上安全、豊漁祈願および魔除けの行事として演じられている。
松原のハーリーでは、その日の早朝、集落のツカサ達によりカーニ御嶽、大泊御嶽アンツァー御嶽、ズガキ御嶽の順に御願行事が行われる。その後、余興として競漕が2回行われる。
海上での行事が終わると、舞台はズガキの広場の祝宴に移り、いよいよ獅子の登場となる。獅子は雄獅子と雌獅子の二頭獅子で、獅子舞は獅子役と囃子役、三味線の伴奏で構成される。獅子役は、獅子頭(シーシャ)を操作する役と尻尾の部分をあやつる係の2人で囃子役(タースビー)はターサ(六尺)とツヅンフチャ(小太鼓役)各1人、三味線は1~2人で行われる。獅子役は、獅子頭の鼻の穴あるいは口の穴からターサーの動きを見てそれに合わせて勇猛に獅子頭を動かし、尻尾の者も体をくねらせて呼応する。獅子の舞い方は即興的で、小太鼓の伴奏も素朴である。
宮古のハーリーで獅子舞が演じられるのは久貝・松原集落だけである。中でも松原の獅子舞は、組織的に古くから受け継がれてきており、人々の風俗・習慣を知る上からも貴重な無形の民俗文化財である。

上区の獅子舞 宮古島市

サズガー、ウッザンミ、ザラツキ゜、ユナバリ、パナキシャの5集落は、明治25年、下里添村として下里村から行政分離されたという。その際、村分けの祝いとして下里の主は、下里村の守護神である2頭の獅子を下里添村に贈ったという。その後、下里添村では、毎年旧暦8月15日に豊年祭を催し、獅子舞をブンミャー御嶽に奉納する習わしとなり、上区の獅子舞として現在に至っている。
下里添村は大正10年に下里添上区と下里添下区に分字、上区はその後、上区部落、戦後は下北部落と称するようになった。
上区の獅子舞は、始めと終わりに厳粛な神事が執り行われる。獅子は上区部落の魔除け、厄除け、区民の協和、豊作の守護神として祀り、崇められている。現在の獅子舞は、昭和23年に新造され3代目に当たる。

友利獅子舞 宮古島市

友寄の獅子は道光18年(1821年)に田名宗経氏によって作られたものである。その由来は当時天然痘が流行し、死者が多く出たため村の魔除けの守護神として製作されたものと言われている。1830年頃から災害の発生しやすい夏8月頃に魔除け、厄払い、無病息災、五穀豊穣の祭りとして 獅子舞を一年越しに行う様になり、現在に伝承されている。
初代の獅子は今次大戦で焼失していまい、現在の獅子は1968年に山田真山画伯の手によって製作された。
昔は疫病、火事、旱魃等がおこるとすべて悪霊の仕業であると思い、村人達は総出で三尺程の棒を持ち、獅子を先頭に道端の石垣や草木を叩ながら部落内の道を隈なく廻ったと伝えられている。
友利の獅子舞は最初に法螺の合図で始まる。鉦(4~5人)、アラスグナ(煽役)2人によってマキャーブドス゜(巻円舞)を3番程度踊る。次に獅子舞に移り、寝ている獅子お誘い出して煽る。さらマキャーブドス゜を3番程度踊り、再び獅子舞いに移る。最初に歌を1番だけ歌い踊り終了する。

比嘉の獅子舞 宮古島市

1913(大正2)年に始まったと伝えられる。士族と平民が字有地の財産を巡って争い訴訟事件にまで発展、比嘉部落の将来を憂慮した双方は、1912(明治45)年和解した。その和解記念の祝賀行事に獅子舞・競馬・角力などを催したという。この行事は「パツカショウガツ」(旧暦1月20日)と呼ばれる。以来、今日まで部落の繁栄と無病息災を祈願し継承されている伝統ある獅子舞である。

稲嶺の獅子舞 南城市

旧暦の8月13日から15日にかけて行われる十五夜遊び、別名獅子ぬうとぅいむち(おもてなし)で演じられている。獅子舞の演技は、獅子舞の前に舞方棒が演じられた後、三線と銅鑼の音によって、まず獅子舞をあやつる人物が丸い餌のを使って、獅子を誘いだし、誘いにのって獅子が舞台に現れ、舞いが始まる。
舞いの型には、胴体のかゆい箇所をかくしぐさを表現する舞や舞台の四隅に走り寄る舞、蛇が怒って立ち上がる様を表現した舞、唐手の型になざらえての舞、悦に入った喜びを表現する舞などがあげられる。

玉城の獅子舞 南城市

字玉城の獅子舞は、古くからの伝承で、むらの守り神として信仰されてきた。
獅子舞を上演する際には、字民が祈願をして演じたようである。現在、字玉城以外で演じる場合は、屋号ナーカで祈願をし獅子を持ち出して舞を演ずる。
鐘、三味線、ショーグに合わして、先導者が自由自在に獅子を舞いさせる。

南風原の獅子舞 うるま市

1726年に勝連間切地頭代、前浜親雲上(カッチンバーマー)という優れた指導者が首里王府から集落移動の許可を取り付け、勝連城の南側傾斜地から現在地に村を移動した頃からムンヌキ(魔除け)として舞われてきた。
当初、定まった型はなく三線にあわせて舞うだけであったが、1917(大正6)年に旧具志川市田場の上殿内の指導を受け、現在の型が形成された。
舞い始めは、まずワクヤー(おびきだし手)が獅子を挑発しながら入場し、獅子を誘い出したワクヤーはすぐさま退場します。獅子は、魔物と思っているワクヤーを取り逃がした不満を爆発させ、激しく舞い狂った後、退場する。


町指定無形民俗文化財

玻名城の獅子舞 八重瀬町

玻名城の獅子舞はその昔、魔除けや無病息災を祈願し人形芝居の京太郎(チョンダラー)が演じていた獅子舞を玻名城の長田家が譲り受けたことに由来する。ある年、疫病が流行し、その獅子を先頭に部落を練り歩き悪疫を追い払った。以来、部落の守り神として大切にされている。毎年旧暦7月16日と旧暦8月15日に行なわれている。

喜舎場の獅子舞 北中城村

獅子は百獣の王としてとうとばれ、獅子舞はあらゆる災厄が払われるものとして信じられている。喜舎場では旧盆のウークイの日に悪霊を払い、五穀の豊穣、集落の発展を祈願して演じられる。獅子舞は、はじめに一人の男(ワクヤー)がまりを両端に結びつけたひもを首にかけてまりを振りながら獅子を誘い出して始まる。獅子の胴体には二人の男が入り、三線、太鼓、ドラに合わせて獅子舞いを演じる。

津覇の獅子舞 中城村

1600年頃に伝わったといわれる津覇の獅子舞は集落の拝所で行われ、五穀豊穣、無病息災、集落の繁栄を祈願する祭祀として演じられ奉納される。 津覇の獅子舞には、剛をイメージした雄の舞と柔らかな所作を主体とした雌の舞があり、雄、雌の踊りを一頭の獅子で踊り分けるのが特徴である。

那覇市首里汀良町の獅子舞

南風原町字宮平の獅子舞

宮平の初代獅子は、およそ260年前に首里王府から拝領されたと伝えられ、現在の獅子は3代目である。18世紀頃、首里から伝わったとされる7つの舞型があり、共通する型「三方」という動作が宮平独自の技で、基本の型になっている。ワクヤーと獅子の格闘は他区域に類を見ないものである。


西原町字小波津の獅子舞

由来は定かではないが、約300年前より行われたと伝えられている。獅子は守護神として部落の中心にある獅子屋に祀られ、年2回旧暦7月17日のヌーバレーと旧暦8月15日の村遊びに厄蔵いと五穀豊穫・子孫繁栄を祈願して行われる。


志多伯の獅子舞

志多伯の獅子舞は無病、息災を願い約270年の歴史を持つと伝えられ、年忌ごとの旧暦8月15日に「獅子の祝」として村芝居の舞台で演じられる。
三年忌祭までは毎年実施し、その後7年忌、13年忌、25年忌、33年忌祭と続き、33年忌祭が終わると初年忌に戻り、同様に繰り返し行事が行われる。


東風平の獅子舞

今から130年程前に、東風平村に天然痘が大流行した。そこで村の有志が集まり魔除けとして獅子加那志を仕立て、村人の健康と豊年を祈願して道行列(ミチズネイ)をしたのがはじまりと伝えられている。
毎年旧暦8月15日に行なわれている。


石垣市大川の獅子舞

大川の獅子舞の由来 およそ200年前に石垣島の川平村の浜に獅子頭の入った大きな箱が漂着した。その獅子頭を模倣して、大川村の指物職人が獅子頭を彫り、これに子犬が玉と戯れる様子を基に大川村の獅子舞が始まったという。
1年間の地域の安全と字民の無病息災に感謝し、字の繁栄を祈願し、毎年、旧盆中日に獅子祀りと獅子舞を行っている。


石垣市白保の獅子舞

白保に獅子舞が伝わったのは、およそ200年前だと言われている。旧盆の夜、その集落内の家々を獅子舞がめぐって祖先供養をする。旧盆中毎日獅子舞を行うのは、八重山では白保だけである。
白保の獅子舞には、獅子が赤ちゃんを口からすっぽりのみこんで、そのままお腹から取り出される習わしがある。子どもの無病息災を願うもので、のまれた赤ちゃんは健康に育つと信じられている。
まず、獅子使いが両端に玉の付いた縄をもって人里へ2頭の獅子舞を誘いだす。すると獅子が玉を取り争い、人々と戯れ、威嚇する。これを各家々で演舞する。


読谷村渡慶次の獅子舞

渡慶次に獅子が作られたのはおよそ260年前頃(1700年代)だと推定される。獅子とガン(龕)はミートゥンダ(夫婦)と言われ、同じ年代に建造されたと伝えられている。途中戦争により獅子が消失し、一時は途絶えた獅子舞も1950年に復活しこれまで大切に継承されている。
獅子は旗頭と共に渡慶次を象徴するものであり、また魔除けの神として部落民から親しまれ、伝染病が流行した時代に悪病払いの祈願のため部落内を練り歩いたこともあったようである。

要約
15世紀初 ── 尚巴志王(1422年~1439年)
那覇市汀良町の獅子。中国から学ぶ、空手の型に固執し、銅鑼のみの囃子で舞う。
15世紀中 ── 尚金福王3年(1452年)
福建省の獅子。長虹堤の落成式典に舞う。
15世紀中 ── 尚金福王没年の1453年(布里・志魯の王位争奪戦)
具志川市江州の獅子。人畜に害を及ぼす伝染病(ふ ー ち)の化身たる野獣を撃退する。
16世紀中 ── 尚元王(1556年~1572年)
宜野湾市普天間の獅子。村興しの神として尚元王より贈られる。
16世紀末 ── 尚永王(1573年~1588年)
浦添市内間の獅子。毎年の豊年祭に魔除けと五穀豊穣を祈る。
18世紀初 ── 尚敬王(1713年~1751年)
勝連町南風原の獅子。前浜親雲上が首里王府から現住所への移動許可をとり守護神として獅子を祀る。
18世紀中 ── 尚穆王(1752年~1792年)
石垣市川平に獅子頭漂着=八重山獅子舞の始まり。

1757年、八重山の登野城村から村別れして大川村新設される。
大川の指物大工、獅子頭を真似て彫り獅子舞広まる。
1771年3月10日、宮古と八重山に大津波襲来。宮古1,542人、八重山9,448人の死者が出る。
沖縄本島より在番として派遣された与那覇在番は、それまでヒッソリと行われていた御嶽信仰の祭祀を盛大に行わせて人心の安定と生産の向上を図った。
此の政策により獅子舞なども盛んになる。
読谷村渡慶次の獅子。悪病払い・魔除けの神として親しまれ部落内を歩く。
那覇市首里末吉の獅子。首里王府の直轄地・西原の幸地から獅子の型(空手が基本)を習い補う。
19世紀初 ── 尚温王(1795年~1802年)
与那国町祖納の獅子。前座で行う棒踊りを伝えた首里の棒術者が乾隆帝(清国皇帝)の末期(1800年頃)与那国に漂着す。
19世紀中 ── 尚泰王13年(1860年)
八重山竹富町黒島の結願祭。黒島大屋子玉代勢秀記氏の指導で、タイラク、獅子の棒、獅子舞などが行われる。

参考:沖縄の祭と芸能 本田安次、名護大百科事典、文化遺産オンライン