沖縄文学

沖縄文学 Okinawan Literature


お国は? と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ
ずつとむかふとは? と女が言った
それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂鬱な方角を習慣してゐるあの僕の国か!
南方





南方とは? と女が言った
南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帯、龍舌蘭と梯梧と阿且とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被って寄り添うてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどゝ談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯


アネッタイ! と女は言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、眼の前に見える亜熱帯が見えないのか!
この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見連が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所


沖縄文学というのは、奄美、沖縄、宮古、八重山の四つの諸島にまたがる地域で生まれた文学の総称で、古代文学と近代文学の二つに分けることができる。
 古代文学とは、沖縄が歴史的出発(3~6世紀頃)をそてから十九世紀後半頃までの間の琉球方言で形象された文学、近代文学とは、十九世紀後半以降、主として日本的標準語で形象された文学を指す。古代文学と近代文学の間には、歴史の変革に伴う文学の場の構造的な変質と、文学意識、および意識の媒体となる言語の改まり(琉球語→日本語)が明らかであり、それらをもって区別の基準とする。



古代文学
 古代文学の内容は、その形態と発想の側面から呪祷(じゅとう)文学、叙事文学、叙情文学、劇文学の四つに分けることができる。呪祷、叙事、叙情の三つは、そのほとんどが唱え物か謡物(うたいもの)、あるいは歌謡として韻文的に口承されてきたものであり、劇文学も、韻律を伴った台詞に、音楽、舞踊が組み合わされたもので韻文的である。このように、沖縄の古代文学はそのほとんどが韻文で構成されており、散文形式のものはかろうじて狂言や擬古文などにみられる程度である。沖縄文学は、呪祷・叙事性を基層にした呪詞(じゅし)・歌謡中心の文学であることと、文学の媒体である言語が、ほとんど島ごとに異なった姿をみせていることが大きな特徴である。それゆえ、その形態、発想の多様さをそのまま日本文学史のなかに包み込むことはむずかしい。ただ、両者は、言語も文化も源を同じくするものであり、文学の形態、発想そのものも本質的には同質で、日本文学の古形、あるいは独自に変成したとみられるものである。
〔1〕呪祷文学 呪祷文学というのは、言霊(ことだま)信仰に基づいた呪言(じゅごん)によって唱えたり謡ったりするもので、奄美のクチ(口)、タハブェ(崇(たか)べ)、オモリ、マジニョイ(呪(まじな)い)、沖縄のミセセル、オタカベ(お崇べ)、ヌダティグトゥ(宣立言)、ティルクグチ(照るく口)、ティルル(照るる)、マジナイグトゥ(呪い言)、宮古のニガリ(願い)、マジナイグトゥ(呪い言)、タービ(崇べ)、ピャーシ(拍子)、フサ(草)、ニーリ(根の方)、八重山のカンフチ(神口)、ニガイフチ(願い口)、カザリフチ(飾り口)、ジンムヌ(呪文)などがある。
 例を沖縄諸島にとれば、ここに伝わる呪詞、呪言のうち、もっとも古いと思われているものはミセセルとオタカベである。原始社会では自然に調和するための祭りや呪術が盛んに行われた。そのような社会で、超人間的な力をもつ神にすがり、五穀豊穣(ほうじょう)の予祝をしようとする願望が、神祭りにおけるオタカベとなって発達したものである。ミセセルは、神のことばとしての託宣であり神託であるといわれている。しかし、伝えられているミセセルの内容を検討してみると、祝詞(のりと)であるオタカベとの違いを明らかにすることが困難である。これと同じことは、奄美、宮古、八重山の呪祷文学についてもいえる。島々の呪詞、呪言には多くの呼称があり、地域的な変容と内容の変遷または重なりなどを複雑にもっているため、呼称に対応した区別をすることはきわめてむずかしい。なかには、神々の呪縛と呪祷的な心意を離れ、地区の歴史や人事を語る叙事歌的内容に変わっているものもある。ただそれらすべてに共通するのは、人と神との間をつなげる呪詞としての機能をもっているものである、ということである。
〔2〕叙事文学 叙事文学には、奄美のナガレ歌、八月踊歌、ユングトゥ、沖縄のクェーナ、ウムイ、オモロ、宮古の長アーグ、クイチャーアーグ、八重山のアヨー、ジラバ、ユンタ、ユングトゥなどがある。叙事文学もまた、歴史的変遷のなかでその区別を困難にしてしまったアヨー、ジラバ、ユンタなどがあり、さらに、呪祷と叙事と叙情との区別をしがたいほどに内容の重なりがみられるものすらある。それらの大部分は農耕儀礼にかかわりが深く、神々の呪縛のなかに初源的な生命を育て、呪祷的心意や叙事性を含み込んだまま、共同体の生活の場に大きく広がっていったものである。沖縄のクェーナは、村落共同体の繁栄や幸福を願う願望を、対語・対句を連ね、連続・進行的に叙述していく典型的な叙事的歌謡である。クェーナで謡われる主題は、漁労、稲作、雨乞(あまご)い、航海、船造り、家造り、布織りなどである。ウムイも、その内容、形態、そして信仰的機能、伝承地域までクェーナと重なりあっていて区別がつけにくいが、より多様な生活形態を包み込んで神々との接触を保っている。ウムイのなかには、対語・対句の形をもつクェーナに近いものと、構造的に繰り返すオモロに近いものとがあり、クェーナ的な歌形や心意から抜け出し、構造的に繰り返しうる新しい歌形をつくりだしていく姿をみることができる。アマウェーダーとよばれるクェーナをみると、稲作のための整地から種播(たねま)き、稲の成育、刈り入れまでの過程を、順序よくていねいに謡い込んでいる。このような生産のための生活経験を歌に謡い込めて伝承し、神祭りの場で予祝的に謡うというパターンは、奄美のナガレ歌、宮古のアーグ、八重山のアヨーにも共通してみることができる。稲作その他の生産過程を言霊にすがりながら幻視的に表現することがそのまま豊穣につながっていくのだという信仰があり、そのような信仰や意識を基盤にしたクェーナ的古謡が生まれてきたようである。こういうクェーナ的古謡の形態と発想は、奄美、沖縄、宮古、八重山を通ずる南島古謡の基本的性格をなすものであるといえる。ウムイとオモロは本来同じものであるが、地方のウムイが呼称、歌形、内容など、中央的に整理され、宮廷歌謡として整えられていったものがオモロである。
〔3〕叙情文学 叙情文学には、奄美の島歌、沖縄の琉歌(りゅうか)、宮古のクイチャー、トーガニ、シュンカニ、八重山の節歌(ふしうた)、トゥバラーマ、スンカニなどがある。島歌、琉歌、節歌などは総括的な呼称で、それぞれのなかでまた長歌形式と短歌形式に分けることができる。いずれも、もとは単にウタとよばれたものであるが、沖縄のウタが琉歌といわれるようになったのは、日本の和歌が、唐歌(からうた)に対して和歌と称して区別されるようになったのと同じ事情であり、それぞれの地域における地域的変容と特性をもっている。琉歌は「短歌形式」「長歌形式」に二分し、前者に「短歌」「仲風(なかふう)」を、後者に「長歌」「つらね」「木遣(きや)り」「口説(くどき)」を区分することができる。「短歌」は、八八八六の4句30音からなる定型の短い文学形式である。普通にウタといい、「琉歌」というときにはこれをさす。「仲風」は、七五八六の4句26音、もしくは五五八六の4句24音からなる定型の「短歌」である。上句が和歌調であり、下句が琉歌調であるところに「仲風」の特徴がある。「長歌」は、八八八八と8音を連続し、末句を6音で締めくくる形式の歌である。8音の連続性が「短歌」より長いことが特徴であるが、長いといっても「短歌」に比べてという程度で、さらに長い「長歌」は、別のジャンルの「つらね」に近くなってくる。8音を連ねて末句を6音で締めくくる構造化の原理は、「長歌」「つらね」ともに同じであり、その点「短歌」も例外ではない。「長歌」の数はそう多くはなく、せいぜい20首内外というところである。「つらね」と「長歌」の違いは、「つらね」のほうが長い歌形であること、書簡体という方式をとっていること、内容に物語性を内包していること、の三つをあげることができる。「木遣り」は、八八音の連続を基調にし、8音の間にハヤシ(囃子)が入る歌で、建築用材を山から下ろして引いて行くときに歌われる特殊な労働歌である。いまでは「木遣り」のほとんどが失われ、わずかに那覇で歌われていたものが残されているだけである。「口説」は、七五音の連続を基調にし、いわゆる和文調の歌である。和語も取り入れられているし、読みも和風に読むのが正しい。もともと薩摩(さつま)役人たちをもてなす宴席で歌われたという。
〔4〕劇文学 劇文学には、奄美の諸鈍(しょどん)芝居、狂言、沖縄の組踊(くみおどり)、狂言、人形芝居、歌劇、宮古・八重山の組踊、狂言などが伝わっている。組踊は、沖縄の言語、文学、芸能をもって総合的に構成された沖縄独自の楽劇である。島々に伝わる伝説、説話を劇性の支えとし、方言による古語を積極的に取り入れながら沖縄的な八・八調の音律に調え舞踊もまた古くから伝わる「こねり」「しぬぐ」などの祭式舞踊を組み合わせて構成されている。1719年、尚敬王(しょうけいおう)の冊封(さくほう)の際、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)が踊奉行(ぶぎょう)として冊封使招待の宴の余興のために創作したのが始まりといわれている。沖縄、宮古、八重山に伝わる狂言はそれぞれに独自であり、風土に根ざした「笑いの文学」であるが、奄美の与論島の狂言には大和(やまと)狂言がかなり入っている。八重山の竹富島(たけとみじま)の狂言は、神に捧(ささ)げる厳粛な「ジンヌキョンギン」(例の狂言)と即興のことばで笑いを引き出す「バラシキョンギン」(笑い狂言)の二つに分かれていて特異である。諸鈍芝居というのは、奄美に伝わる諸芸能の組合せで構成されており、初めに出てきて祝福の口上を述べる長者の大主(うふしゅ)、次に演じられる狂言など、沖縄の村踊の構成とよく似ている。沖永良部島(おきのえらぶじま)の「蛇踊(じゃおどり)」は、踊りとはいっているが劇的要素をもっており、組踊の変形かと思われる。
 人形芝居は俗にチョンダラー(京太郎)といい、ニンブチャー(念仏者)、ヤンザヤー(万歳屋)ともいわれるが、伝承者たちはフトゥキマーシー(仏舞わし。仏は人形のこと)といっていたようである。人形を操って各地を門付して歩いたもので、大和からの渡来であるという。首里に伝わっていたチョンダラーは第二次世界大戦後絶滅し、いまでは、沖縄本島中部の泡瀬(あわせ)と北部の宜野座(ぎのざ)に伝承されている。
 歌劇は沖縄独特の歌舞劇である。台詞(せりふ)を琉歌の節にあわせて掛け合いで歌い、しぐさや踊りを交えながら劇を進めていくという形をとる。その代表的な作品は『泊阿嘉(とまいあーかー)』であるが、ほかに『奥山の牡丹(ぼたん)』『辺土名(へんとな)ハンドー小(ぐわ)』などがある。組踊の劇性が、とかく王府や士族階層のもつ道徳律に縛られがちであったのに比べ、歌劇は庶民の生活の場にある喜びや悲しみが巧みにくみ上げられている。歌劇にはまた、『泊阿嘉』の伊平屋島(いへやじま)、『辺土名ハンドー小』の伊江島(いえじま)など、組踊のもたなかった地理空間の広がりがあることや、組踊『花売りの縁』と歌劇『奥山の牡丹』のように、筋の展開において重なりをもちながら、一方がめでたく終わるのに対し、一方は悲劇で終わるという構成をもつなど、それだけ歌劇が組踊より幅広い劇性をもつようになったことを意味するもので、劇構成の発展的要素をそこにみることができる。



近代文学
 沖縄古代人の文学意識や文学伝統は、呪祷から叙事、叙情へと、沖縄の思想と風土をくみ上げ、沖縄文学の独自性を貫く形で数百年も発展してきた。しかし、明治初年、幕藩体制の崩壊による日本の国家統一、近代化の発展過程で、沖縄もまた日本的体制のなかに組み込まれることになったため、政治、経済、文化の諸面にわたって大きな変動がおこった。文学の場も例外ではなかった。まず、ことばの面で日本的標準語が沖縄語の上にかぶさったため、文学の媒体も沖縄語によるよりは標準語を使ったほうが、より広い場と支持を得るようになってきた。文学環境のまったく新しい広がりとでもいうことができるこのような変革をめどにして、沖縄における古代文学と近代文学の境目にすることができる。文学媒体の言語のみならず、社会の変動に伴う文学意識の改まりも、はっきりとした様相を呈してくる。しかし、沖縄の島々を日本的体制のなかに組み入れようとする上からの力は、さまざまな制度的差別、社会的差別を伴いつつ覆いかぶさったため、恵み豊かな平和に安住してきた沖縄の人々の心に深い傷痕をとどめた側面があった。山之口貘の、「お国は?」と聞かれて、一言「沖縄」といえない心の屈折をつづった『会話』と題する詩は、辺境「沖縄」であることの社会的被差別の痛みであり、それはそのまま沖縄の近代化の、歴史的苦悩でもあったわけである。1879年(明治12)の廃藩置県以後、日本的標準語を使うことで近代文学への足掛りをつくった沖縄の文学は、明治30年代に「近代短歌」「詩」、40年代に「小説」という新しい文学形式を獲得してのち、中央の文学と同質化しようとする懸命な努力を試みることになるが、山之口貘の独特な詩風を除いては、みるべき作品は生んでいない。沖縄の近代文学が、自覚的かつ自立的な文学として歩み出すのは、戦後の昭和30年以降に待たなければならない。


参考:沖縄の歴史と文化(外間守善)、鑑賞日本古典文学25 南島文学(外間守善)

やまぐちばく

1903年9月11日~1963年7月19日
沖縄県那覇区東町大門前出身の詩人。



弾を浴びた島

島の土を踏んだとたんに
ガンジューイとあいさつしたところ
はいおかげさまで元気ですとか言って
島の人は日本語で来たのだ
郷愁はいささか戸惑いしてしまって
ウチナーグチマディン ムル
イクサニ サッタルバスイと言うと
島の人は苦笑したのだが
沖縄語は上手ですねと来たのだ



紙の上

戦争が起きあがると
飛び立つ鳥のように
日の丸の羽をおしひろげ
そこからみんなで飛び立った
一匹の詩人が紙の上にいて
群れ飛ぶ日の丸を見あげては
だだ だだ と叫んでいる
発育不全の短い足
へこんだ腹
持ちあがらないでっかい頭
さえずる兵器の群をながめては
だだ だだ と叫んでいる
だだ だだ と叫んでいるが
いつになったら「戦争」がいえるのか
不便な肉体 どもる思想 まるで砂漠にいるようだ
インクに渇いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかえる
その一匹の大きな舌足らず
だだ だだ と叫んでは
飛び立つ兵器の群をうちながめ
群れ飛ぶ日の丸を見あげては
だだ だだ と叫んでいる



座蒲団

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に坐ったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ



底を歩いて

なんのために
生きているのか
裸の跣で命をかかえ
いつまで経っても
社会の底にばかりいて
まるで犬か猫みたいじゃないかと
ぼくは時に自分を罵るのだが
人間ぶったぼくのおもいあがりなのか
猫や犬に即して
自分のことを比べて見ると
いかにも人間みたいに見えるじゃないか
犬や猫ほどの裸でもあるまいし
一応なにかでくるんでいて
なにかを一応はいていて
用でもあるみたいな
眼をしているのだ



花曇り

つまりこれが
五十肩とかで
男の更年期障害だと云うのだ
なにしろ両肩の関節が痛み
服を着るにも一々
女房やこどもの手を借りるのだ
まったくこの手の
不自由なこと
電車に乗っても吊革に
この手がのびない始末なのだ
それでその日も腰をかけるために
満員の電車を見送ったあとなのだ
ホームの端に突っ立って
五十肩になりすましていたところ
ふと柵外に眼をやると
そこの路地裏に猫が群れているのだ
けんかにしてはひっそりしすぎるので
猫らしくもないとおもったのだが
四組になってそろいもそろった
若い猫達の
あべっくなのだ



芭蕉布

上京してからかれこれ
十年ばかり経っての夏のことだ
とおい母から芭蕉布を送ってきた
芭蕉布は母の手織りで
いざりばたの母の姿をおもい出したり
暑いときには芭蕉布に限ると云う
母の言葉をおもい出したりして
沖縄のにおいをなつかしんだものだ
芭蕉布はすぐに仕立てられて
ぼくの着物になったのだが
ただの一度もそれを着ないうちに
二十年も過ぎて今日になったのだ
もちろん失くしたのでもなければ
着惜しみをしているのでもないのだ
出して来たかとおもうと
すぐにまた入れるという風に
質屋さんのおつき合いで
着ている暇がないのだ



土地3

住めば住むほど身のまわりが
いろんなヤロウに化けて来るのだ
疎開当時の赤ん坊も
いつのまにやらすっかり
ミミコヤロウになってしまって
つぎはぎだらけのもんぺに
赤い鼻緒の赤いかんこで
いまではこの土地を踏みこなし
鼠を見ると
ネズミヤロウ
猫を見ると
ネコヤロウ
時にはコノヤロバカヤロなどと
おやじのぼくにぬかしたりするのだ
化けないうちにこの土地を
引揚げたいとはおもいながらだ



世はさまざま

人は米を食っている
僕の名と同じ名の
獏という獣は
夢を食うという
羊は紙も食い
南京虫は血を吸いにくる
人にはまた
人を食いに来る人や人を食いに出掛ける人もある
そうかと思うと琉球には
うむまあという木がある
木としての器量はよくないが詩人みたいな木なんだ
いつも墓場に立っていて
そこに来ては泣きくずれる
かなしい声や涙で育つという
うむまあ木という風変わりな木もある



鮪に鰯

鮪の刺身を食いたくなったと
人間みたいなことを女房が言った
言われてみるとついぼくも人間めいて
鮪の刺身を夢みかけるのだが
死んでもよければ勝手に食えと
ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
女房はぷいと横にむいてしまったのだが
亭主も女房も互に鮪なのであって
地球の上はみんな鮪なのだ
鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅やかされて
腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
ある日ぼくは食膳をのぞいて
ビキニの灰をかぶっていると言った
女房は箸を逆さに持ちかえると
焦げた鰯のその頭をこづいて
火鉢の灰だとつぶやいたのだ



ねずみ

生死の生をほつぽり出して
ねずみが一匹浮彫みたいに
往來のまんなかにもりあがつてゐた
まもなくねずみはひらたくなつた
いろんな
車輪が
すべつて來ては
あいろんみたいにねずみをのした
ねずみはだんだんひらたくなつた
ひらたくなるにしたがつて
ねずみは
ねずみ一匹の
ねずみでもなければ一匹でもなくなつて
その死の影すら消え果てた
ある日 往來に出て見ると
ひらたい物が一枚
陽にたたかれて反つてゐた



鼻のある結論

ある日
悶々としてゐる鼻の姿を見た
鼻はその両翼をおしひろげてはおしたゝんだりして 往復してゐる呼吸を苦しんでゐた
呼吸は熱をおび
はなかべを傷めて往復した
鼻はつひにいきり立ち
身振り口振りもはげしくなつて くんくんと風邪を打ち鳴らした
僕は詩を休み
なんどもなんども洟をかみ
鼻の様子をうかゞひ暮らしてゐるうちに 夜が明けた
あゝ
呼吸するための鼻であるとは言へ
風邪ひくたんびにぐるりの文明を掻き乱し
そこに神の気配を蹴立てゝ
鼻は血みどろに
顔のまんなかにがんばつてゐた

またある日
僕は文明をかなしんだ
詩人がどんなに詩人でも 未だに食はねば生きられないほどの
それは非文化的な文明だつた
だから僕なんかでも 詩人であるばかりではなくて汲取屋をも兼ねてゐた
僕は来る日も糞を浴び
去ゆく日も糞を浴びてゐた
詩は糞の日々をながめ 立ちのぼる陽炎のやうに汗ばんだ
あゝ
かゝる不潔な生活にも 僕と称する人間がばたついて生きてゐるやうに
ソヴィエット・ロシヤにも
ナチス・ドイツにも
また戦車や神風号やアンドレ・ジイドに至るまで
文明のどこにも人間はばたついてゐて
くさいと言ふには既に遅かつた

鼻はもつともらしい物腰をして
生理の伝統をかむり
再び顔のまんなかに立ち上つてゐた





一匹の守宮(やもり)が杭の頂点にゐる
三角の小さな頭で空をつついてゐる
ぽかぽかふくらみあがった青い空
僕は土の中から生えて来たやうに
杭と並んで立ってゐる
僕の頂点によぢのぼって来た奴は
一匹の小さな季節 かなしい春
奴は守宮を見に来たふりをして
そこで煙のやうにその身をくねらせてゐる



襤褸は寝てゐる

野良犬・野良猫・古下駄どもの
入れかはり立ちかはる
夜の底
まひるの空から舞ひ降りて
襤褸(らんる)は寝てゐる
夜の底
見れば見るほどひろがるやう
ひらたくなつて地球を抱いてゐる
鼾が光る
うるさい光
眩しい鼾
やがてそこいらぢゆうに眼がひらく
小石・紙屑・吸殻たち・神や仏の紳士も起きあがる
襤褸は寝てゐる夜の底
空にはいつぱい浮世の花
大きな米粒ばかりの白い花



雨と床屋

雨の足先が豆殻のやうにはじけてゐる
バリカンの音は水のやうに無色である
頭らが野菜のやうに青くなる
山羊の仔のやうな
ほそいおとがひの芸妓もゐる
なんとまあよく降る雨だらう
清潔どもが気をくさらして
かはりばんこのあくびである



がじまるの木

ぼくの生まれは琉球なのだが
そこには亜熱帯や熱帯の
いろんな植物が住んでいるのだ
がじまるの木もそのひとつで
年をとるほどながながと
気根(ひげ)を垂れている木なのだ
暴風なんぞには強い木なのだが
気立てのやさしさはまた格別で
木のぼりあそびにくるこどもらの
するがままに
身をまかせたりしていて
孫の守りでもしているような
隠居みたいな風情の木だ



生きる先々

僕には是非とも詩が要るのだ
かなしくなっても詩が要るし
さびしい時など詩がないと
よけいにさびしくなるばかりだ
僕はいつでも詩が要るのだ
ひもじいときにも詩を書いたし
結婚したかったあのときにも
結婚したいという詩があった
結婚してからもいくつかの結婚に関する詩が出来た
おもえばこれも詩人の生活だ
ぼくの生きる先々には
詩の要るようなことばっかりで
女房までがそこにいて
すっかり詩の味おぼえたのか
このごろは酸っぱいものなどをこのんでたbたりして
僕にひとつの詩をねだるのだ
子供が出来たらまたひとつ
子供の出来た詩をひとつ



士族

往ったり来たりが能なのか
往ったばかりの筈なのに
季節顔してやって来る

それが 春や夏らの顔ならまだよいが
四季を三季にしたいくらゐ見るのもいやなその冬が
木の葉を食ひ食ひこちらを見い見いやって来る
両国橋を渡って来る

来るのもそれはまだよいが
手を振り
睾丸振り
まる裸

裸もまだよい
あの食ひしんぼうが
なにを季節顔して来るのであらうか

第一
ここは両国ビルの空室である
たまには食っても食ふめしが たまには見ても見る夢が
一から
十まで
借り物ばかり
その他しばらく血の気を染め忘れた 手首 足首 この首など
あるにはあるが僕の物



再会

詩人をやめると言って置きながら 詩ばっかり書いてゐるではないかといふやうに
つひにに来たのであらうか
失業が来たのである

そこへ来たのが失恋である
寄越したものはほんの接吻だけで どこへ消えてしまふたのか 女の姿が見えなくなったといふやうに

そこへまたもである
またも来たのであらうか住所不定

季節も季節
これは秋

そろひも揃った昔ながらの風体達
どれもこれもが暫くだったといふやうに大きな面をしてゐるが
むかしの僕だとおもって来たのであらうか
僕をとりまいて
不幸な奴らだ幸福さうに笑ってゐる



沖縄よどこへ行く

蛇皮線の島
泡盛の島

詩の島
踊りの島
唐手の島

パパイヤにバナナに
九年母(くねんぼ)などの生る島

蘇鉄や竜舌蘭や榕樹の島
仏桑花や梯梧の真紅の花々の
焔のように燃えさかる島

いま こうして郷愁に誘われるまま
途方に暮れては
また一行づつ
この詩を綴るこのぼくを生んだ島
いまでは琉球とはその名のばかりのように
むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく
島には島とおなじくらいの
舗装道路が這っているという
その舗装道路を歩いて
琉球よ
沖縄よ
こんどはどこへ行くというのだ

おもえばむかし琉球は
日本のものだか
支那のものだか
明(は)っきりしたことはたがいにわかっていなかったという
ところがある年のこと
台湾に漂流した琉球人たちが
生蕃のために殺害されてしまったのだ

そこで日本は支那に対して
まず生蕃の罪を責め立ててみたのだが
支那はそっぽを向いてしまって
生蕃のことは支那の管するところではないと言ったのだ
そこで日本はそれならばというわけで
生蕃を征伐してしまったのだが
あわて出したのは支那なのだ
支那はまるで居なおって
生蕃は支那の所轄なんだと
こんどは日本に向ってそう言ったと言うのだ
すると日本はすかさず
更にそれならばと出て
軍費資金というものや被害者遺族の撫恤(ぶじゅつ)金(きん)とかいうものなどを
支那からせしめてしまったのだ
こんなことからして
琉球は日本のものであるということを
支那が認めることになったとかいうのだ

それからまもなく
廃藩置県のもとに
ついに琉球は生れ変わり
その名を沖縄県と呼ばれながら
三府四十三県の一員として
日本の道をまっすぐに踏み出したのだ
ところで日本の道をまっすぐに行くのには
沖縄県の持って生れたところの
沖縄語によって不便で歩けなかった
したがって日本語を勉強したり
あるいは機会あるごとに
日本語を生活してみるというふうにして
沖縄県は日本の道を歩いて来たのだ
おもえば廃藩置県この方
七十余年を歩いて来たので
おかげでぼくみたいなものまでも
生活の隅々まで日本語になり
めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり起こったりするにも
人生のすべてを日本語で生きて来たのだが
戦争なんてつまらぬことを
日本の国はしたものだ

それにしても
蛇皮線の島
泡盛の島
沖縄よ
傷はひどく深いときいているのだが
元気になって帰って来ることだ
蛇皮線を忘れずに
泡盛を忘れずに
日本語の
日本に帰って来ることなのだ



青空に囲まれた琉球の頂点に立って

おさがりなのである
衣類も食物類も住所類もおさがりなのである
よく掻き集めて来たいろいろのおさがり物なのである
ついでに言ふが
女房といふ物だけはおさがり物さへないのである
中古の衣食住にくるまって蓑虫のやうになってはゐても
欲しいものは私もほんとうに欲しいのである
まっしぐらに地べたを貫いて地球の中心をめがける垂直のやうに
私の姿勢は一匹の女を狙ってゐるのである
引力のような情熱にひったくられてゐるのである
ひったくられて胸も張り裂けて手足は力だらけになって
女房女房と叫んでゐるので唇が千切れ飛んでしまふのである
妻帯したら私は、女房の足首を掴んでその一塊の体重を肩に担ぎあげたいのである
機関車ㆍ電車ㆍビルディングㆍ煙突など 街の体格達と立ち並んで汗を拭き拭き私は人生をひとまはりしたいのである
青空に囲まれた琉球の頂点に立って
みるみる妻帯する私になって兵卒の礼儀作法よりももつとすばやく明(は)っきりと
『これは女房であります』言ってしまって
この全身を私は男になり切りたいのである



沖縄風景

そこの庭ではいつでも
軍鶏(タウチー)たちが血に飢えているのだ
タウチー達はそれぞれの
ミーバーラーのなかにいるのだが
どれもが肩を怒らしていて
いかにも自信ありげに
闘鶏のその日を待ちあぐんでいるのだ
赤嶺家の老人(タンメー)は朝のたんびに
煙草盆をぶらさげては
縁先に出て座り
庭のタウチー達のきげんをうかがった
この朝もタンメーは縁先にいたのだが
煙管がつまってしまったのか
ぽんとたたいたその音で
タウチー達が一斉に
ひょいと首をのばしたのだ



耳と波上風景

ぼくはしばしば
波上(なんみん)の風景をおもい出すのだ
東支那海のあの藍色
藍色を見おろして
巨大な首を据えていた断崖
断崖のむこうの
慶良間島
芝生に岩かげにちらほらの
浴衣や芭蕉布の遊女達
ある日は竜舌蘭や阿旦など
それらの合間に
とおい水平線
くり舟と
山原船の
なつかしい海
沖縄人のおもい出さずにはいられない風景
ぼくは少年のころ
耳をわずらったのだが
あのころは波上に通って
泳いだりもぐったりしたからなのだ
いまでも風邪をひいたりすると
わんわん鳴り出す
おもい出の耳なのだ





おねすとじょんだの
みさいるだのが
そこに寄って
宙に口を向けているのだ
極東に不安のつづいている限りを
そうしているのだ
とその飼い主は云うのだが
島はそれでどこもかしこも
金網の塀で区切られているのだ
人は鼻づらを金網にこすり
右に避けては
左に避け
金網に沿うて行っては
金網に沿って帰るのだ




       
悪夢はバクに食わせろと
むかしも云われているが
夢を食って生きている動物として
バクの名は世界に有名なのだ
僕は動物博覧会で
はじめてバクを見たのだが
ノの字みたいなちっちゃなしっぽがあって
鼻はまるで象の鼻を短くしたみたいだ
ほんのちょっぴりタテガミがあるので
馬にも少しは似ているけれど
豚と河馬のあいのこみたいな図体だ
まるっこい眼をして口をもぐもぐするので
さては夢でも食っていたのだろうかと
餌箱をのぞけばなんとそれが
夢ではなくてほんものの
果物やにんじんなんか食っているいるのだ
ところがその夜ぼくは夢を見た
飢えた大きなバクがのっそりあらわれて
この世に悪夢があったとばかりに
原子爆弾をぺろっと食ってしまい
水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと
ぱっと地球が明るくなったのだ



牛とまじない

のうまくざんまんだばざらだんせんだ
まからしやだそわたようんたらたかんまん
ぼくは口にそう唱えながら
お寺を出るとすぐその前の農家へ行った
そこでは牛の手綱を百回さすって
また唱えながらお寺に戻った
お寺ではまた唱えながら
本堂から門へ門から本堂へと
石畳の上を繰り返し往復しては
合掌することまた百回なのであったが
もう半世紀ほど昔のことなのだが
父は当時死にそこなって
三郎のおかげで助かったと云った
牛をみるといまでも
文明を乗り越えておもい出すが
またその手綱でもさすって
きのこ雲でも追っ払ってみるか
のうまくざんまんだばざらだんせんだ
まからしやだそわたようんたらたかんまん



不沈母艦沖縄

守札の門のない沖縄
崇元寺のない沖縄
がじまるの木のない沖縄
梯梧の花の咲かない沖縄
那覇の港に山原船のない沖縄
在京三十年のぼくのなかの沖縄とは
まるで違った沖縄だという
それでも沖縄からの人だときけば
守札の門はどうなったかとたずね
崇元寺はどうなのかとたずね
がじまるや梯梧についてたずねたのだ
まもなく戦禍の惨劇から立ち上がり
傷だらけの肉体を引きずって
どうやら沖縄が生きのびたところは
浮沈母艦沖縄だ
いま八十万のみじめな生命達が
甲板の片隅に追いつめられていて
鉄やコンクリートの上では
米を作るてだてもなく
死を与えろと叫んでいるのだ





斉藤さんは発音した
だんだんだんだんというとこを
たんたんたんたんと発音した
それは矢張りのやはりのことを
それはやばりと発音した
学校のことを
かっこう
下駄のことを
けたと発音した
こんな調子で斉藤さんはまずその
ごじぶんの名前の斉藤を
さいどうですと発音した
争えないのは血なのであるが
かなしいまでに生々と
大陸
大海
大空はむろん
たったひとりの人間の舌の端っこでも
血らは既に血を争っていた
斎藤さんは誰に訊かれても決して
ごじぶんの生まれた国を言わなかった
言うには言うが
眉間のあたりに皺などよせて
九州ですと発音した



雲の下

ストロンチウムだ
ちょっと待ったと
ぼくは顔などしかめて言うのだが
ストロンチウムがなんですかと
女房が睨み返して言うわけなのだ
時にはまたセシウムが光っているみたいで
ちょっと待ったと
顔をしかめないでいられないのだが
セシウムだってなんだって
食わずにいられるものですかと
女房が腹を立ててみせるのだ
かくて食欲は待ったなしなのか
女房に叱られては
眼をつむり
カタカナまじりの現代を食っているのだ
ところがある日ふかしたての
さつまの湯気に顔を埋めて食べていると
ちょっとあなたと女房が言うのだ
ぼくはまるで待ったをくらったみたいに
そこに現代を意識したのだが
無理してそんなに
食べなさんなと言うのだ





季節々々が素通りする
來るかとをもつて見てゐると
來るかのやうにみせかけながら

僕がゐるかはりにといふやうに
街角には誰もゐない

徒勞にまみれて坐つてゐると
これでも生きてゐるのかとをもふんだが
季節々々が素通りする
まるで生き過ぎるんだといふかのやうに

いつみてもここにゐるのは僕なのか
着てゐる現實
見返れば
僕はあの頃からの浮浪人

私の青年時代

 人間は、生れてしばらくの間を赤ん坊と言われ、そのうちに幼年、少年、青年、壮年、老年という順を経て、墓場に永住することになるわけである。このなかで人間にとって一番の人気ある年代は青年時代のようで、青春と呼ばれているのがその時代なのである。幼年や少年にとっては、憧れの的であり、壮年や老年にとっては、またとかえるすべのない思い出なつかしい時代として、どの世代の人間からも、愛され拍手を浴びているのが青春時代なのではなかろうか。その意味では、青春をどのようにして生きて来たか、あるいは生きているか、または生きたいかということが、おそらくだれもの関心事であることに違いないのである。
 さて、世間並には、ぼくにも青春というのがあるにはあった。あるにはあったと言うことは、よき青春であったかどうか、またよき青春とはどんなものかについては自信をもって語ることが出来そうもないからなのである。
 ぼくの生地は、沖縄である。沖縄と言えばなにも威張って言うのではないが、太平洋戦争とか言われているところの甚だみっともない戦争のために、かつて世界の史上になかったと言われるほどの犠牲を払った島として、一躍世界にその名を知られ、現在は米国の極東基地として、異民族の支配下にある一部の日本なのである。つまり沖縄県なのだ。ぼくはその沖縄県の那覇市の生れで、那覇市は戦前の県庁所在地、現在は米国民政府と琉球政府と、日本政府の出先役所である那覇日本政府南方連絡事務所との所在地なのである。ぼくは明治三十六年の九月にその町に生れた那覇人で、沖縄流の発音でナフヮンチュである。つまり、ナフヮが那覇で、チュは人のことである。ついでに、本名は山口重三郎であって、幼名をサンルーと呼ばれていたが、つまり三郎のことなのである。
 県下では那覇の東北へ一里の首里に第一中学校があった。いわゆる名門校である。ぼくの学んだ小学校は、甲辰尋常小学校で、六年生になると一中への受験準備をしなくてはならなかった。ぼくは優等生だったので、担任の先生も家族も一中への入学をきめ込んでいたらしいのだが、その期待を見事に裏切って落第し、家の中を憂欝なものにしてしまった。受験準備のつもりで、毎日机に向っているのであったが、頭のなかには一つ年下の少女の顔があるばかりで、勉強のはいる余地がなく、受験準備をしているふりで通した結果なのであった。
 とは言っても、落第はぼくにとってもショックで、頭のなかの少女もたちまち掻き消されてしまって、次のときは受験準備も順調に進み、高等科一年をすませて一中への進学を遂げたのであった。すると、すぐにぼくは注意人物としてチェックされたのである。先生方の閻魔帳に記されたぼくの氏名には、赤い△印がついたのである。と言うのは、ぼくと同姓の山口校長の修身の時間に修身の教科書を衝立にして居眠りしてしまったからなのであった。
居眠りをしたことについては、それだけの事情があってのことで、前夜、兄の結婚式のために夜ふかしをして、一睡もとらずに登校したからなのであったが、校長がその理由を不問のまま、眼にふれた現象だけをチェックして注意人物に仕立てたことは、ぼくの反感を唆るものがあったのである。このことを兄に話すと、小学校の図画の専科教師である兄がじっとしてはいられない風に、「校長に会って事情をよく話す」と言い出したのであった。短気者の兄だけにどうなることかとぼくはおもわずにはいられなかったが、ついそのままになったのであった。  いまでこそ沖縄の結婚式は東京並の形式になったらしいが、当時は古風で仰々しいもので、ぼくは兄の結婚をはじめ、姉とその次の姉の場合との三度も「提灯持」の役を経験したのであるが、祝宴は夜更までも続いて、宴のほとぼりは夜明けになっても醒めず少年のぼくなどさえ一睡も出来ないほどの騒ぎなのであった。かくて、ぼくは注意人物第一号の中学生になってしまって、以来この意識は影となってぼくにまつわりついたのである。
 二年生になったとき、新入生に喜屋武(キャン)というのがいた。ぼくは自分からすすんで、この喜屋武とつき合って出来るだけ親しくした。かれにはグジーという名の姉があったからなので、本心はグジーに近づく手なのであったが、いかにも未来の弟を得たような気分になって、ついにその家にも出入りするようになり夢見ごこちにしばしば眼の前にグジーの顔を見ることが出来たのである。
 しばしばはやがて、雨の日も風の日もどころではなくなって、台風の日も、びしょぬれになってまで毎日毎日喜屋武を訪ねて、長時間をかれの家で過ごした。しかし、グジーと話をする機会はまずなかった。意識的にその機会をつくらないからでもあった。グジーと話をする機会をつくっては、喜屋武は勿論のこと、その家の人達に、ぼくの本心がばれそうなのでそれを警戒したのである。なにしろ、遊ぶにも勉強するにも、男は男同士、女は女同士の習慣に従っていた時代なのでなおさらのことなのであった。しかし、男女が共にあそびたいことはいつの時代の男女も同じなのであって、未だ男女別の時代であった大正の中期では、密会の機会をつくらないことには男女が共にあそぶことは気のひけることなのであった。世間の眼にふれない場所を探し求めて、そこでひそかに語り、あそぶのである。ぼくもそうすることを自分自身にのぞんだのであった。
 ぼくは毎日も喜屋武家に通いながら、手紙さえグジーに手渡したことはなく、書くたんびに郵送した。その手紙が、どのような文章で、どんな書体であったかはいまは記憶に残っていないのであるが、とにかく喜屋武家に通いながら、一方では文通によってグジーとの交際を続けて、将来ぼくとの結婚についての彼女の同意を掴むことが出来たのであった。やがて、通い詰めていた喜屋武家を時々サボルことになった。そんなときは世間の眼を避けてひそかにグジーと会っていたのである。そして、三年生になったころは喜屋武家を訪れる日が全くなくなってしまった。時に相変らずひそかに、公園裏の木立の蔭で、将来についてのとりとめのない話をふたりっきりでするのが唯一の楽しみなのであった。
 さて、しかし、ふたりのことをどんな風にして周囲のもの達に納得してもらったらいいかを考えないではいられなかった。ぼくの父は、銀行員であって給仕からたたきあげられた人で、家族にとっては怖い存在で、実は恋愛していますなんて相談を持ちかけるには、余りにも古風な人で、想像しただけでも、中学生のくせに恋愛しているとは何事だ馬鹿者奴と、きっとぶんなぐられてしまうより外にはどうにもならない予感がするのであった。いっそのこと、きまりわるいけれども兄にこの恋愛のことを訴えて、兄から父を説得してもらう手を考えてみないでもなかったが、兄でも父の頑固さには歯が立つまいとおもうより外にはなかったのである。あれこれ考えた揚句の果てに、おもいついたことがユタなのであった。
 ユタというのは、カミンチェとも言われているが、カミは神のことで、神がかりのした女のことを言うのである。家になにかの異変があったりすると、沖縄ではこのユタを家に招いてなにかと願を立てた。熱を出して床につくと、何かの祟りではないかとユタに頼んで占ってもらい、うまくいかないことがあるとまたユタで、願を立ててもらう。ユタはそれを、何代目の先祖の祟りであるとか、どこかでびっくりしたことがある筈でそのとき魂を落したからであるとかと言っては、そのための願を立てるわけなのであるが、ぼくの家でもしばしばユタのお世話になるのであった。
 ある日の夕方、ぼくはユタのことを予想して、あることのついでに魔にでも憑かれたふりをして家中を騒がせたのである。こころのなかでは、一刻も早くユタが来るのを願いながら、正気で魔に憑かれたしぐさをすることは、ぼくの場合は生きた芝居なのでなかなか容易なことではなく、誰かに見抜かれはしまいかとはらはらしながらのことなのであった。ぼくはからだをがたがたふるわせたり、うつろな眼をして自分でもなにかわからぬことを口走ったりしながら、取り巻いて神妙な顔をしているみんなの様子をうかがっていたのであるが、ユタが来ると、腹をきめて、彼女の名だけを、口走った。そのときユタはぼくの口真似をして、「グジー」と呟いたのである。この一言で、ぼくはまんまとユタを釣りあげ、頑固な父を釣り、兄を釣り母を釣り姉を釣った結果となったわけで、このような形でグジーとの恋愛をみんなに認めさせ、やっと婚約を結ぶことが出来たのであったが、とんだところでユタの恩恵をこうむったのであった。
 こうして、恋愛に夢中になっているうちに、おろそかになっていたのが学業で、ぼくはもう一度三年生を繰り返したのであった。そのころは、絵を描いたり、すでに詩もつくるようになっていたが、友達四、五人で「ほのほ」という詩の雑誌を寒天版で印刷して出したりした。ぼくたちは生田春月や室生犀星や藤村の詩なども読んだが、仲間はみんなホイットマンの詩に傾倒した雰囲気をもっていた。そして寄ればすぐに、無産階級とか有産階級とか、搾取とかの用語を口にし、大杉栄の名が出たりしたのである。四年生になってからの雄弁大会に「ほのほ」の仲間であるOとNとが演壇に立ったが、Oは熱弁をふるって社会主義を唱え出して弁士中止、そのために学校を追われ、Nは骨董品に校長をたとえてその人身を攻撃し出したので演壇から引摺り下ろされNも放校処分となった。そして、ぼくは新聞「琉球新報」紙上に、「石炭」と題する詩に、「一中の坂口先生に与える」と副題して発表した。博物の先生が講義の時に、「石炭にも階級がある。まして人間の社会に階級のあることは当然としなくてはならない筈だ」という意味のことを言ったので、それに対しふんがいして書いたものなのであった。その詩の書き出しは、
「褐炭 泥炭 無煙炭 それは階級ではない」というのであったが、そのあとはもう忘れてしまった。サムロ生として匿名で発表したがすぐに校長室から呼び出されたのはぼくなのであった。新聞を眼の前に突きつけられて、誰だかこころ当りはないかと言われたが、全然ありませんで通したのであった。しかし、父がそれを知っていたことは意外で、「落第生のくせに先生を馬鹿にしやがって」と、頭をぶんなぐられて、足で蹴飛ばされたのであった。
 そんなこんなで、学校には愛想が尽きてサボル日が続いていた。まもなく兄夫婦が大阪へ出て行って、相ついで父母が石垣島へ渡り、弟や妹もそっちへ行ってしまい、ぼくだけが那覇の家に残ったのであった。そこへグジーからの破談状が舞い込んで来たのだ。理由として、ぼくの落第したり不良化したりのことが挙げられていたのであるが、ユタなど利用したほど念のいったことをする割に、諦らめるとなるとさっぱりしたもので、その点はなにかにつけ現在のぼくと変りはなかったのである。
 ぼくが上京をおもい立ったのは、それからまもなくのことであった。そして、大正十一年の秋に上京した。東京駅はたしか丸の内側の乗車口、降車口だけで、タクシーを見かけた覚えはなく、人力車が殆どなのであった。柳行李といっしょに人力車に乗り、早稲田の諏訪町にあった同郷の友人の下宿に落ち着いたが、この下宿を振り出しにぼくの放浪生活ははじまったのであった。半月ほどして本郷新花町の下宿に移り、それから本郷台町の下宿、駒込片町の荒物屋の二階、駒込中里の先輩の家と不義理を重ねて転々としているうちに大正十二年九月一日の大地震なのであった。  ぼくはそのころ戸塚にあった日本美術学校に籍をおいていて、時に本郷絵画研究所へ出かけたりして絵の勉強をしかけていたが、約束した筈の父からの送金が、上京以来ただの一度もなく、大震災を機に出直すつもりで罹災者として汽車、船を無賃で沖縄へ帰ったのである。
 帰るとすぐに父の事業が失敗していることを知った。那覇の家も人手に渡っていて、父は毎日海に向ってぽかんと口をあいているのであった。父の失敗のとばっちりを食った母方の叔父が代償にぼくのことを寄越せと来たのには驚かないではいられなかった。まもなくぼくは人質にならないうちにと石垣島を逃げ出して那覇に出たがそこではすでに住むところもないばかりか、友人知人のところを転々とするより外にはなく、とどのつまり海岸や公園に寝泊りするようになったのであった。
 そして、十三年の夏、家出する友人があって旅費を負担するからと頼まれ、かれと連れ立って再度上京したのであった。そして第一夜を目白台の道路にあった土管のなかにもぐって過したが、翌日、麹町富士見町の下宿にかれを案内して、いやがるかれをかれの兄さんのもとに届けたのである。ぼくは暫らくの間、また友人知人の間を転々していたが、やがて、銀座二丁目の書籍問屋東海堂書店の発送部に住み込みで働らくことになった。そこにいる間に年代は大正から昭和に変った。その後、職は暖房屋に変り、鍼灸屋に変り、隅田川のダルマ船に乗ったり、汲取屋になったりしたのであったが、昭和十四年現在の職業安定所の前身であった東京府職業紹介所に就職するまでの十年間は殆ど住所不定の生活をしていたのであって、右に挙げた職はその間にぽつんぽつんとありついたものなのであった。暖房屋のときには、慣性の法則みたいなのが人間の心理のなかにもあることを感じて「無題」という詩をつくり、ダルマ船のときには、陸を食いつめて水上に移り、まるで船頭さんを食っているみたいな自分の姿を見たりして「転居」という詩を書いたり、汲取屋になっては、くさいと言うにはすでに遅かったという詩「鼻のある結論」を書いたりして、「改造」とか「中央公論」などに発表したのであった。
 まだ昭和の初めごろのことなのであったが、暖房屋をやめてから鍼灸屋になるまでの間も例によってぼくには住所がなかった。しかし、芝の宇田川町界隈のある喫茶店を中心にして、その日その日を過し、その夜その夜の風の吹き廻しで行き当りばったりの所で睡眠をとったのである。その場所は日比谷公園のベンチの上であったり、知人友人の所であったり、あるいは夜明けまで街を歩いてから、勤めへ出て行く友人と入れ替りにかれの部屋で一睡させてもらったりしていた。
宇田川町の喫茶店は、暖房屋のころから懇意にしていたので、そこに泊り込むわけにはいかなかったが、朝の十時にはもうその店の一隅のボックスにぼくは腰かけていて、夜の十一時十二時まで、殆ど毎日ねばりつづけて暮した。食事は一日に一回、食う日もあればまるで食えない日もあった。当時その近所にあった改造社のある知人は、ぼくが訪ねて行くと、かれの間借りしている家にぼくを案内して、「貘さん、いっぱい炊いてあるから食い溜めしておきなさい」と釜ごとぼくの前に置いたこともあったが、空腹には馴れている筈のぼくでも、馴れていることで空腹を克服することは不可能なのであった。
 ぼくは朝の十時頃になるとどこからともなく其の喫茶店に来て、入口に近い窓際のボックスで原稿紙を前にしていることが常で、十銭の珈琲一杯でかんばんまでねばり、表へ出ても帰る家のないぼくは足の向くままに歩きながら行先を考えるのであった。こんな状態を繰り返していたある日のこと、暫らくの間その顔を見せなかった常連の一人が、日焼した顔で店にはいって来たのである。彼は出張で沖縄まで行って来たのだと大きな声で店の女主人とその娘を相手に言った。丁度そのときはぼくも店の人達と話をしていたところなのであったが、沖縄出身のぼくにとっては、「沖縄」というのがいささか刺激的に聞えたのである。おそらく明治生れの沖縄人一般にそれは共通する筈の刺激なのであった。徳田球一はかれの思想の動機を問われると、「俺は被圧迫民族だから」と答えたとか人づてにぼくは聞いたことがあったが、そのことは沖縄の歴史がすでに証明していて、言わばこの被圧迫民族としての劣等感を刺激されたのであった。ぼくはかつて(大正十二年)、関西のある工場の見習工募集の門前広告に「但し朝鮮人と琉球人はお断り」とあるのを発見した。その工場にとってそれだけの理由はあるのであったろうが、それにしても気持ちのいいものではなかった。またある人は、かれの文章のなかで、ぼくの詩を讃えるの余り、「かれが琉球人でであるからではない」と付加えていたが、その言葉の裏には明らかに琉球人を特種的な眼で見ていることを感じないわけにはいかなかった。それでぼくにとっては、出張から帰って来たその男が、どのような眼で沖縄を見ているかに関心を寄せないではいられなかったが、酋長の家に招待されて、大きな丼で泡盛を飲んだんだだの、土人がどうのこうのという調子なのである。沖縄人のぼくでさえ見も知らぬ遠いどこかの国の話かとおもうようなイメージを唆られるのであった。それが旅行者のたのしみであろうとはおもいながらも、一抹の哀感に襲われてしまうのは決して沖縄人であるからというそのせいばかりではないのである。この男の話を聞いて喫茶店の娘は瞠目しているばかりなのであるが、その眼の前にいるぼくを、沖縄人だと知ったら、どうなることだろうとぼくはおもわずにはいられなかった。ぼくはかねがね、るんぺん生活をなんとか卒業して、この娘に結婚を申し込むつもりの間柄になっていたからなのでもあったのだ。ぼくに「会話」と題する詩があるが、この店のボックスのなかで懸命に書いたものなのである。

梯梧の花

 ぼくが、まだ、おっぱいをのんでいたころのある日のことである。母のおっぱいに吸いついたのであったが、すぐに、おっぱいを突っ放して、ぼくは泣き出してしまった。ぼくのことを離乳させるために、母がその乳首のところに唐辛をつけてあったからなのである。ぼくは、泣きながら、台所にあった小さな水桶を引き摺って来て、その水に手をぬらしては、母の乳首を懸命に洗ったことを記憶しているのである。だが、洗ってから、おっぱいをのんだかどうかは、さっぱり記憶にはないのだ。しかし、そのことは、おそらく、ぼくの人生の最初の大事件なのであったに違いなく、ぼくの記憶の一番古いものとして、いまでも時に思い出すことなのだ。そしてそのたびに、ぼくは仏桑華の花をおもい出さずにはいられないのであるが、それはあのころ泣きながらも、ぼくの眼に、仏桑華の花がちらついて見えていたことを覚えているからなのであろう。一本の仏桑華が、当時の家の庭(実は庭ではなかった。縁側の面しているわずかばかりの空地なのであった。)の片隅に、生えていたのだ。
 仏桑華は、特に沖縄だけにあるのではなかろうが、沖縄生れのぼくなどにとっては、忘れることの出来ない沖縄の花なのである。仏桑華は、沖縄ではアカバナと称されていて、その花の形よりは、その色からアカバナと名づけられたもののようで、原色的な赤い色の花だからであろう。本によると、仏桑華の原産地は印度だそうで、花の色は普通のが紅色とある。その他には、白や黄のもなるとのことであるが、ぼくの知っている限りの沖縄のアカバナでは、ついぞ白いのを見たことがなかった。だが黄色をおびたのや、桃色のアカバナのあったことは知っているのである。仏桑華はアオイ科に属する植物だそうで、小柄な灌木なのであるが、琉球ムクゲという別名のあることからしても、琉球の花、つまり、沖縄の花とおもっても一向に差しつかえはないこととおもうのだ。葉は卵形に近いもので、しかし、縁が鋸の歯のようにギザギザになっていて、葉の先が尖っているのである。花弁が五つで、ラッパ形にひらき、芯が長く飛び出ているのである。夏から秋へかけて咲くのだと言われているのだが、ぼくの記憶によると、沖縄では年中咲いていたような気がする。庭のある家ならどこの家でも、きっと仏桑華の花が咲いていたし、庭のない家でも、井戸端に咲いていたり、垣根のところに咲いていたりしていて、沖縄では日常の生活のなかに生えているようなものであって、仏壇や、墓まいりにも、なくてはならない花なのであった。
 ぼくの家には、仏桑華がつきものみたいになっていて、例の唐辛事件のあった上之倉の家から、西本町の家に引越して来たときにも、狭い庭にアカバナの咲いていたことを覚えているし、泉崎の家に移ってからは、どうやら庭らしい庭も出来て、更に三種類のアカバナが咲いていたことを覚えているのである。それが、赤い色のと桃色のと、黄色味をおびた花であったことを記憶しているのだ。
 仏桑華は、観賞用の植物だそうで、沖縄では庭はもちろんのこと、井戸端や垣根の側にもその花は眺められ、仏壇や墓場を飾るにもなくてはならない花なのであった。
 梯梧の花も、また、沖縄の花なのだ。
 梯梧は、その老木になると、高さが、十五、六米にも及ぶ喬木なのである。
その幹など、二人か三人の大人がどうやらかかえることの出来るような太さのもあるのであった。まめ科の植物だそうで、オーストラリヤか印度あたりにもあるとのことで、戦前の日本にも、梯梧の木は生えていたのだ。即ち、沖縄に生えているからなのであり、台湾にも生えているとのことだからである。しかしながら、戦後は、台湾があんなになってしまい、沖縄は沖縄で、「日本復帰」を唱えなくてはならなくなってしまったところまで、日本からずれている現状なので、いまのところ、日本のどこにも梯梧の木は一本も生えていないと言ってもよいのである。
 ぼくはこどものころ、木のぼりが好きで、そのために、身体のある個所には傷跡など保存しているほどで、よく、がじまるの木にのぼってあそんだのだが、梯梧の木にはのぼらなかった。梯梧は大柄の木であるし、見るからに、筋肉のりゅうりゅうとした腕みたいな枝々を、四方八方に伸ばしていて、その木質は、見かけによらずもろいものなのだ。そのうえ、枝々にはトゲがあるのである。花は真紅で、無数の花を綴って総状になって咲くのであるが、亜熱帯のコバルト色の空のなかに、燃える焔を高くかざしたように咲いているのは、なんとも言えない美しさで、沖縄では情熱の象徴として珍重されている花なのだ。
 そろそろ、沖縄では、梯梧の花の季節になるのである。ぼくは、梯梧や仏桑華と別れてすでに三十余年にもなってしまった。その間に、色々と変ったことのあったことは、風の便りにきいてはいたのだ。戦争後の沖縄についても、矢張り、沖縄帰りの人や、あるいは沖縄から出て来たというような人々から耳にしたり、または、新聞や雑誌の上で読んだりしたことから想像して知っているに過ぎないのだが、郷里沖縄に、郷里がなくなってしまった感じをどうすることも出来ないのだ。いまでは沖縄が、すっかり一大軍艦の姿にかわってしまったということは、誰にきいても、読んでも、そうおもわないではいられないことばかりだからなのである。
 軍艦沖縄は、どこの国の軍艦なのか、ぼくなどが言うまでもなく、読者の知っているところであろう。その軍艦の上に、軍艦用の人間達が住んでいることは勿論なのだろうが、地球用の人間ではあっても、決して、軍艦用の人間ではない筈の同郷の沖縄人が、何十万も軍艦の上に住んでいるわけなのだ。
 仏桑華も梯梧も、その生えるところに悩み、その花を咲かせるにこまっているのではないかと同郷のぼくなどは案じないではいられないのだ。

雨あがり

その日、朝は、どしゃ降りなのであったが、午後になると、からりと晴れて、縁側に陽がさした。硝子戸を開け放って、ぼくは机を前にしていた。女房は、ぼくの傍で繕いものをしていた。木戸の風鈴が、鳴りそこないみたいに鳴って、ミミコが帰って来たのである。
「ただいまあ」
「おや、おかえんなさい」
 女房は、そういいながら、針をおいて、縁側に出たのであるが、
「あら、この子、合羽どうしたの? 学校において来ちゃったの?」といった。
 ミミコは、いわれてはじめて気がついたらしく、「あっ、そうだ」といいながら、小さな手を振りあげて、小さな頭をおさえてみせたのである。
「おばかさんね、合羽を忘れてくるなんて、なくなったらどうするの」
 母親は、そのように叱ったり、明日は忘れずに合羽を持って帰るよう念をおしたりしていたのだが、ぼくの眼にはいかにも、雨あがりの午後とでも名づけたいような、母子の風景なのであった。
 ミミコが、合羽を忘れて帰って来たのは、いまのところそのときだけのことで、合羽もなくならずに済んだのであるが、ぼくの友人の家庭では、中学へ通っているひとり息子のために、十何本も傘を買わされたとの話をきいたことがあった。つまり、息子さんは、十何本という傘をなくしたわけなのだが、学校でなくしたり、電車のなかでなくしたり、あるいは、寄り道をした本屋の店頭でなくしたり色々で、行きも帰りも雨のときはとにかく、帰りが天気にでもなるものなら、まるで、そのときを見はからっていたみたいに、きっと、傘を棄ててくるとのことなのであったが、そのときそこに居合わせていた当の息子さんは、母親の言葉尻をつまみあげてみせるみたいに、「いくらなんでも、棄ててくるというのはひどすぎるよ。つい忘れてくるんだから仕方がないじゃないか」といって青筋を立てた。
 すると、母親は母親で、「十何本もなくしちゃって、つい忘れるなんてよくいえたものだ。棄ててくるのとおんなじじゃないかね」というのであった。
 ぼくは、そのことをおもい出しながら、ミミコの将来を案じないではいられなかった。
 ある日の、雨あがりの午後、陽のさしこんで来た縁側に出て、ぼくらは、夫婦で、ミミコの合羽の噂をした。お天気になったのではまた、合羽のことを忘れてくるんじゃないかと気になったからなのだ。そこへ、風鈴が鳴りそこないみたいに鳴って、木戸の両側の紅葉の木が揺れたかとおもうと、ミミコが帰って来たのである。 「ただいまあ」
「早かったわねえ。おかえんなさい」
母親は、そういってから、つづけて「よく合羽わすれなかったわねえ。かんしんかんしん」といった。
 すると、ミミコは、にっこり笑って、いったのだ。
「でもねえ、ランドセルわすれてきちゃったのよ。ごめんなさいね、おかあさん」
 ぼくら夫婦は、口を開けて、顔を見合わせてしまったのである。
「だって、こんなにたくさん、にもつがあるんだもの」
 ミミコは、そう言いながら、片方の手にぶらさげていた草履袋だの手提げの籠だの、縁の上に投げ出して、片方の手で、胸に抱いていたごわごわの赤い合羽を、それらの上におっかぶせたのであるが、なるほど、小さなからだでは、それらの物を運ぶだけでも、精一杯のことにちがいなかったのであろう。おまけにお天気になったために、前の経験が眼をさましたりして、合羽を忘れてはなるまいと、そのことにも気をとられたりして、つい、ランドセルには失礼してしまって、そのまま置き忘れて来たのではあるまいか。
 そのように、考えてみると、大人の世界でもありがちな忘れ方なのであって、ぼくは、おもわず、自分の口を塞がないではいられなかったのである。

沖縄帰郷始末記

 三十五年ぶりで郷里に帰り、ついこのごろになって帰京した。
 沖縄での滞在期間一ヵ月に限られているところの岸信介大臣の証明する身分証明を懐にして行ったのであるが、沖縄へ行ってみると、色々の事情が次から次へとできて、さらに現地での滞在を一ヵ月のばしてもらって満二ヵ月を過し、往復ともに一ヵ月半ほどで東京に舞い戻ったわけである。
 三十五年ぶりに郷里へ帰るとはいっても、なにもその三十五年ぶりを、ぼく自身が特に強調したのではなかったのであるが、何年ぶりの帰郷なのかと相手にきかれるので、そのように答えたまでのことなのであった。しかし、沖縄が、現代の国際情勢のもとで、世界の注目するところのものであることから、沖縄出身のぼくのことまでが、自然周囲のうわさにのぼったにちがいない。それに、貧乏詩人だということまでが手伝ってのこともあって、盛大な歓送会があったり、餞別にしては世間をびっくりさせた程のものをいただいたり、おまけに、新聞、雑誌の上でも騒がれたのである。こんなことが、沖縄の現地にも強く響きわたったのかも知れない。
 那覇の泊港に船が横づけになったとき、岸壁の群衆は大きな幟までおし立てて迎えてくれたものである。紺地に白で「バクさんおいで」と大書されたもので、中学のころの旧友がすでに白髪の頭をして、その幟を両手でかかえているのである。三十五年ぶりとはいえ、錦を着て帰ったのでもないのにと、ぼくはおもわないではいられなかったのであるが、貧乏詩人の、その貧乏が、ぼくの錦ではないのかとおもいなおし、感激をあらたにした次第なのであった。
 東京をたつ前に、ある雑誌と二、三の新聞の原稿をたのまれていたのであるが、どれ一つとして現地でそれを書くことができなかった。なかでも、ある新聞からは第一信をと念をおされたのであったが、義理をはたすことができず、従って、外のも不義理の結果になってしまったのである。帰るころになって次第にそのことが気になり、一信だけでも、船のなかで書かねばなるまいとおもい、それを大阪に着いてから、速達で送ってぼくの帰京より一足でも先に東京の新聞社に間に合わせるつもりでいたところ、どういうものかひどくペンが重たくて、それもついに全うすることができず、帰りを急ぎながらも、そのために三晩を大阪の旅館でぐずついてしまったのである。ところが書けないとなると書けないもので、ついにそのまま東京に帰りついたのである。
 だが、真先に、女房とこどもからの抗議なのである。旅行先から、一枚のはがきさえ便りも寄越さなかったからなのである。なにしろ、述べたように、頼まれた原稿など、何一つとして一行さえも書けないで、鬱々とつづいているところなので、一枚のはがきのことから、つい妙なことになってしまった。
 女房は顔を赤くして怒り、「よっぽど、捜索願を警察に突き出してやろうかとおもった」と向うむきのまま云ったりしたのである。あとでの話によると茨城にいた義兄が、新聞でぼくの沖縄行を知り、「まさか、行きっきりになるんじゃあるまい」と、その義弟に不安をもらしたとのことであるが、女房側の親兄弟の間では、はじめからぼくのことを遠いところの人であるとして、それを気にしているようで、亡くなった義母も、「遠いなあ」と云って、ぼくらの結婚に一抹の不安を持っていたことなどおもい出すのである。なにしろ一ヵ月の予定が二ヵ月にのびたのであったから、そのことだけでも一本のはがきは出せる筈なのに、と彼女はぐちをこぼした。
 さて、折角、東京に帰って来ても、外出することができないのである。帰京のあいさつをしなくてはならないのであるが、約束の原稿が気になるのである。相手の方ではあきらめているにしても、またもういらないといわれるとしても、原稿を持って行っての上でなら、こちらもあきらめがつくわけで帰京のあいさつを後回しにしてその原稿をまず書くことにしたのである。
 しかし、六、七枚書いたが、気にいらないので、別にまた書いたら十枚位になってしまったがそれも読み返してみると、どうもおもしろくないので、また別に書き出したのである。それがまたなかなかすすまないのである。書き上げ次第、帰京のあいさつも出すつもりで、これは印刷もでき上っていて、机の上で出発を待っているのであるが、ぼくの原稿はまだできないのである。
 そこへ、本紙のY氏があらわれた。仕方がないので、机の上のあいさつ状を一枚手渡したのである。やがて、「随筆」を、とのことなので、一信の原稿も書かないうちに沖縄のことかとおもって尻込みしたが、まあ最近の心境みたいなものというわけなのであった。

おきなわやまとぐち

 おんなじ沖縄出身である旧知の男に出会したところ、かれはぼくに「あなたの放送を聞きましたよ」と言ったが、「しかしあなたの日本語はひどいもんですな、まるでおきなわやまとぐちのまる出しじゃありませんか」と来たのである。ぼくはまたかとおもってふき出してしまったが「じゃまるで、あなたの日本語みたいじゃありませんか」と逆襲すると、かれもまたふき出してしまったのである。似たようなことは、同郷人の間にしばしば見かけたり、経験したりする風景で、お互がお互の日本語を、おきなわやまとぐちだと言ってくさし合っている図なのである。
 おきなわやまとぐちというのは、その言葉自体が示しているように、言語としては正体のあいまいなもので、日本語でもなければ方言でもないのであるが、沖縄方言と日本語とをこねまぜたものである。たとえば、おきなわやまとぐちのおきなわは沖縄で、方言ではウチナーである。やまとぐちはヤマトゥグチで日本語のことをいうのである。
 つまり、おきなわという日本語とやまとぐちという方言とで出来ているところのおきなわやまとぐちという言葉みたいな、そういうものをおきなわやまとぐちというのである。言わば、沖縄製の日本語とでもいうようなものなのであって、言語としては奇型であり、通用性に乏しいものなのである。そのために、日常の言語生活の上でおきなわやまとぐちは、時に悲劇を演じたり、時には世間を戸惑いさせたり、あるいはまた同郷人の間でバカにされたりするわけなのである。
 こどものころ、こんな話を聞いたことがある。沖縄のある家で、勉学のために息子を東京へ出したが、息子から電報が来た。「クビキルカネオクレ」とあるので、大騒ぎとなった。しかし、カネオクレとある。自殺をするにしてはカネオクレが納得のいかないことなので「ナゼクビキルスヘン」との問い合わせをしたところ「クロシロニスルスグカネオクレ」との返電が来て、はじめて息子の真意が読めたとのことである。というのは、息子の首のつけ根には生れながらにして黒いあざがあったとのこと、それを東京の医師の手術を受けてなおすための金の請求だったとの話なのである。こんな話も、おきなわやまとぐちに結びついたものなので、ぼくなどにとっては他人事ではないわけなのである。
 沖縄方言にふうるというのがある。便所のことである。ふうるはもともと屋外の屋敷の一隅にあるのが普通なのであったが、そこは家のうしろの方にあたるので、別名をやあぬくしとも言うのである。やあはやで家のこと、くしはうしろのことである。ふうるは日本語の便所にあたる呼び方で、その場の現実的なものをほうふつとさせるのであるが、やあぬくしは、御不浄とか手洗とかみたいに多少間接的な呼び方である。ある人が、訪問先の家で「家のうしろはどこですか」とたずねて、その家の人を戸惑いさせたとのことであるが、かれにとっては尿意をもよおしたからのことで、つまりはやあぬくしをたずねたわけなのである。おきなわやまとぐちの典型的なもので、同郷人の間なら理解出来るのであるが、それは方言と結びつくからで、方言を知らない一般には日本語として通用するはずがないのである。
 ぼくの日本語がおきなわやまとぐちと言われたにしても、「クビキルカネオクレ」とか「家のうしろはどこですか」とかほど、通用しないほどのみっともないものであるとはおもわないのであるが、調子が沖縄調であることはテープ録音によっていやなほど知らされているのである。それにしても、似たり寄ったりの沖縄調の日本語を振りかざして、頭ごなしに来られたのでは、腹が立つより先にふき出さずにはいられなかったのであるが、同郷のよしみからなのである。

チャンプルー

 このごろの泡盛屋では、琉球料理を食べさせるようになったので琉球出身のぼくなどにとっては何よりである。戦前の泡盛屋では、泡盛だけが琉球で、つまみものなどはほかの飯屋と変わらなかったが、いまは簡単な琉球料理があって、琉球的な雰囲気が濃厚である。
 こころみに、ある泡盛屋ののれんをくぐると、ミミガーとか、アシティビチとかチャンプルーとかいうのが、眼につくわけである。むろん初めての客には、見当のつかない料理名なのである。折角、泡盛をついでもらっても、さて、つまみものとなると、さっぱりわからないので、結局、「ミミガーってのはなんだい」ときいてみるより外には手がないのである。
 ミミガーは、一般家庭ではあまり食べなかった。沖縄では辻町の料理屋あたりでは、酒の肴としていつでも食べられたのである。ミミガーは、一口に云えば豚の耳の料理である。食べたことのない人は、耳ときいただけで、そっぽを向いたりするものもあるが、まず、食べてみることが肝心なのである。
 その証こには、ミミガーを食べさせる泡盛屋に来て、それを食べないものは、まずないといってもよいからなのである。よくゆでた耳を、うすくきざんで、大根おろしといっしょに三杯酢にしたものである。こりこりして、なかなかさっぱりしたものである。
 アシティビチというのは、豚の足の料理である。云わば、足の吸物である。これは一般の家庭でも適当に食膳にのぼってくる料理である。しかし、それらのものよりも、もっと一般的な生活に即した料理としては、なんと云ってもチャンプルーである。
 普通、油いためしたものをチャンプルーと云うのである。その種類には、ゴーヤー(れいし)チャンプルーがあり、ビラ(ねぎ)小グワチャンプルー、マーミナ(もやし)チャンプルー、チリビラー(にら)チャンプルーなどがある。それらは野菜である。外にトーフ(豆腐)チャンプルーがある。しかし、どのチャンプルーの場合でも、大ていトーフはいっしょである。
 チャンプルーは、その材料が日常の手近にあるものばかりであり、作り方も非常に簡単で、その場で誰にでも出来るもので、単純素朴のあっさりとした味がよいのである。
 これは、豚の油を、野菜いためにする程度の量を鍋にたらし、それが焼けたころ、豆腐を適当の大きさに千切って入れ、もやしを入れていっしょにいため、塩で味つけするだけのことである。ねぎやにらの場合は寸位に切るか、あるいは、こまかくきざむ。ぼくの好みから云えば、れいしのチャンプルーの味は格別で、あのほろにがい味は忘れ難い。
 れいしは、あちらこちらの家でも、わざわざ棚をかいてつくっていたが、ぼくの家でも、毎年夏になると、父がれいしの棚をつくって、そこにぶらさがったのをもぎっては、チャンプルーにしたものである。沖縄では、赤くなったれいしは食べない。青いうちに、チャンプルーにして食べるか、あるいはうすくきざんで砂糖をきかせた酢の物にして食べる。
 なお、沖縄の豆腐はかたいので、チャンプルーにしても水気がなく、出来上りがさらっとしている。東京の豆腐でつくるときは、布巾でよくしぼって、豆腐をかたくしてからつくるとよい。
 れいしでおもい出したが、沖縄のへちまもうまい。この辺のとは種類がちがうのかも知れない。非常に細長いへちまで、ぼくの家では、これも棚からぶらさがっていた。
 へちまは、醤油で煮てもうまいし、鰹節のだしでおつゆの実にすると、あっさりしてかるい味がある。それから、シブイがある。とうがんのことである。とうがんもおつゆにしたり、醤油で煮たりして食べる。特にうまいというわけではないが、日常よく食べる。
 このごろ、東京の泡盛屋で、豚のしっぽを食べさせてくれるところもある。知らない人は、琉球料理とおもって食べているのかも知れないが、これは、泡盛屋のマダムが発明したものである。しかし、うまい。しっぽそのままの形を皿にのせて出すのである。好きな人にとっては形などどうでもよいのである。
 日常よく食べる魚は、飛魚である。那覇から南へ二里のところに、糸満という漁村がある。沖縄唯一の漁村で、東支那海に面している。糸満の女性も男性も素晴らしい体格をしていて、沖縄では目立つ存在である。糸満では、男達が獲ってきたイカや飛魚、その他のものを、彼等の細君が買いとる。それを竹製の大きな笊に入れて、頭にのせ、大手を振り振り駈け足で、二里の道を那覇の市場まで売りにきたものである。
 飛魚は、輪切りにして、塩煮にするとうまい。豆腐といっしょにおつゆにするときも、醤油を使わずに塩味にする。ぼくは、飛魚の塩煮が好きで、特に、眼球と脳髄を食べずにはいられなかった。
 父は、飛魚の刺身が好きで、塩煮にする前に、必ず刺身をとらせた。刺身と云えば、石垣島で食べたのが素晴らしかった。父がそこで、鰹節製造の事業にたずさわっていたころで、ぼくは時々、その製造場へ鰹の刺身を食べに行った。漁船からおろしたばかりの鰹からとった刺身で、箸でつまみとろうとしたとき、びくっと動く奴もあったほどの新鮮さは忘れ難いのである。ぼくは、東京で、そういう刺身や、あるいはまた、眼球や脳髄まで食べたくなるような飛魚、その他の魚を食べたことがない。
 時に、フィージャーグスイと称して、山羊の料理を食べる。フィージャーは、むろん沖縄語で山羊のことである。グスイはクスリのことで、薬である。つまり山羊薬と云われるほどのもので、汁物にして食べるのである。
 沖縄の塩辛に、チールガラス、スクガラス、スルルガラスなどがある。チールガラスはうにの塩辛である。うにの殻からはがしたままの形で塩辛にしてある点が、ここらで食べるうにの塩辛と違っている。
 スクというのは小さな魚で、幅が一センチぐらい、長さ三センチくらいの平べったいもので、魚そのままの形で塩辛にしてある。なま豆腐といっしょに食べるとうまい。泡盛屋でもこれを食べさせてくれるところがある。
 スルルガラスのスルルも雑魚である。胴のまるっこい細長い六センチぐらいの小さな魚である。このスルルは、鰹の餌なので、禁じられていたが、こっそり裏口から売りにくるのを買って塩辛にした。

 沖縄の民謡に「谷茶前(タンチャメ)」というのがある。

  谷茶前の浜に
  スルル小(グワ)が寄ててんどう
  スルル小やあらん
  大和ミジュンどやんてんどう
  アフィ達やうり取いが
  アン小達やかみてうり売いが
  うり売ての戻いぬ
  アン小が匂いぬしゆらさ

 というのである。大意を説明すると、谷茶前の浜に、スルルの大群がおし寄せて来たんだそうだ。いやいやそれはスルルではなくて大和ミジュンなんだそうだ(大和ミジュンは鰯である)。若人達はそれを取りに行く、そして乙女達はそれを売りに行く、それを売っての帰りの乙女達の匂いの素晴らしさよ、というのである。これは舞踊化されていて、すでに一般の人にも知られている。映画「ひめゆりの塔」にもとりいれられていた。