三線
三線の構造
棹、チーガー(胴)、ムディ(カラクイ、範、糸巻き)で構成されている。
• | 棹 棹に使われる原木は硬く、変形しにくい木材を使用する。(ユシ木、カマゴン、縞黒、 カミゲン黒木、八重山黒木、 紫檀) |
• | チーガー 胴は、四枚の厚い板を合わた木材でできている。皮を張る際に2トン以上もの圧力がかかるため、硬く丈夫な木でできている。また、音の余韻をきれいに出すために胴の内側はいろんな工夫がされている。 |
• | ムディ(カラクイ、範、糸巻き) |
三線の皮
• |
本皮(ニシキ蛇の皮)1枚張り 本皮1枚張りは、沖縄三線本来の音色を奏でる。本皮張りは、比較的皮の厚いところを使用する。本皮1枚張りは、いずれ破れてくるので張替えが必要となる。本土は、沖縄よりも乾燥しているので、沖縄と比べて皮が破れやすい。ただし、最近では、皮が破れないように音よりも皮がなるべく長期間破れないように緩く皮を張る方法が多くなってきている。音は、張りがなくボーン、ボーンと緩い音がする。皮をしっかり張ると音に張りがあり、音もはっきりして綺麗な深みのある音がする。しかし、皮が破れるまでの期間は、短くなる。 |
• | 本皮強化張り 本皮強化張りは、胴に薄い特殊シートを貼る。その上に本皮を張っていくので、かなり丈夫で皮が破れる心配がほとんどない。以前と比べて本皮強化張りの技術は向上し、人工皮張りよりも音が柔らかく、深みのある音がする。近年、本皮強化張りは、ほとんどメンテナンスの必要もなく本皮が破れる心配がないのでかなり需要が増えている。 |
• |
人工皮張り 人工皮張りは、特殊シートに蛇の柄をプリントしたものである。耐久性に優れ長持ちするので野外での使用にも適している。 |
棹の制作工程
1 | 木を伐採して乾燥させる。 |
2 | 木を何当分かに分け、3~4年乾燥させる。 |
3 | 十分乾燥させたのち、三線の型に荒削りする。 |
4 | 荒削りした三線はさらに細かくノコ、ノミやヤスリで型を整えて三線の棹を作っていく。 |
5 | 完成した棹は、ペーパーを何度か掛け細かく表面をなだらかにして行く。 |
6 | 次に塗りは、下地を塗り乾かせ、また、下地を塗り乾かせ、色を塗る(十分乾くまで3~4週間ほどかかる)。 |
胴に皮を張る作業
1 | 裏と表の2回に分けて張っていく。 |
2 | 片面を張りしばらく置き、皮の張具合を見ながら胴に貼り付ける。 |
3 | 同じ様な工程をもう片面も行う。
*ただし、表と裏の皮の張り方のバランスは、職人技が生かされる。皮の張り方によっても音の良し悪しが決まるからである。 本皮、本皮強化張り、人工皮張りの皮の張り方は、それぞれの皮の特徴に合わせて工程が若干違う。 |
調整・完成
棹にカラクイをはめ、棹を胴に差し込む。この「部当て」と呼ばれる組み立て作業が三線の音色に大きく影響するため、棹と胴の角度を丁寧に調整する。歌口をはめ、胴巻きと糸掛をつけた後にカラクイに絃を巻きつけ、最後に駒を立てたら完成である。
起源と由来
琉球に三線が伝わったのは、今から570年前ごろ、1391年察度王(中国帝王にみつぎ物を贈って忠誠をちかい、貿易をはじめた最初の王 1321~1396年)時代といわれている。その起源をたどってみると三絃としての起こりは、遠く3、4千年の昔、エジプトに始まり、それがアラビア、ペルシャを経てインドに入り琵琶となっていった。そして、一方スペインから欧州に入った三絃は、今日のヴァイオリン、マンドリン、ギター等に変わり、唐においては胴に蛇皮を張った三絃が中流以上の家庭に盛んに流行したのちに、シナを経て琉球に輸入され、北上して日本に渡っていったというのが通説になっている。
琉球では、三線は帰化した中国人36姓が福州から久米村に持ってきて普及させたという説がある。その後、赤犬子という天才が三線を改良し、オモロに合わせて弾き、各村々をめぐり歩いて琉球音楽を完成させたと伝えられている。
奏法
沖縄県では基本的に爪(撥)を上から下へ下ろして弦を弾く奏法(ダウンストローク)で弾かれるが、奄美群島では下から上に弾き上げる奏法(アップストローク)が多用される。沖縄県では本土の三味線と異なり、爪で胴を叩かないが、奄美群島では竹製の爪で胴を叩く奏法もある。楽譜には勘所や壺と呼ばれる弦を押さえるポジション、タイミング、弾き方を文字で表した工工四と呼ばれる縦書き譜が用いられる。
もっとも一般的な「本調子」では C-F-C(男弦-中弦-女弦)で調弦するが、弾き語りのときは奏者の声域に合わせて全体の音高を上げ下げする。
流派
三線の演奏には琉球王朝の宮廷音楽として発達した琉球古典音楽と、庶民の間に歌い継がれてきた沖縄民謡、奄美群島の島唄とに大きく分けられる。伝えによれば、歌と三線は「いんこねあがり」という者がおもろや自作の即興詩を三線に合わせて伴奏していたのが始まりとされる。村々を放浪していたため、そのスタイルは広く取り入れられた。俗にいう赤犬子は当て字。現在、赤犬子神社(赤犬子宮)が読谷村楚辺にある。
湛水親方こと幸地賢忠が創設した湛水流から、知念績高の弟子であった安冨祖正元と野村安趙が、それぞれの流れを伝える安冨祖流と野村流を興す。ちなみに古典という呼称は近代に入って、その継承や保存という意識が強まることによって生まれた。仲宗根幸市は、楽曲の種類によって大節や端節と呼ばれていたものを総称して古典と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正末頃ではないかと推測している。
主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、毛遊びや祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の流行や地域のうわさ話、替え歌、春歌、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。
音楽だけに限った話ではないが、琉球古典音楽や沖縄民謡の世界では、その考え方の違いや諸々の事情から複数の団体や会派に分かれている。例えば、琉球民謡協会では「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」の段階分けがあり「師範免許を取得すると教師を指導できる」と言ったように、その所属団体によって会費やコンクールの段階等に違いが生じる。これは本土の家元制を参考にしたもので、通っている研究所の先生の推薦で受験するシステムが一般的である。
1957年設立 - 琉球民謡協会
1989年設立 - 琉球民謡保存会
2002年設立 - 琉球民謡音楽協会
2004年設立 - 琉球國民謡協会
1949年設立 - 八重山音楽安室流協和会
1958年設立 - 八重山音楽安室流保存会
1970年設立 - 八重山音楽大浜用能流保存会
1976年設立 - 八重山古典民謡保存会
1998年設立 - 八重山音楽安室流室山会
宮古民謡協会
宮民謡保存会
宮古民謡保存協会
在沖宮古民謡協会
方言による呼称
三線は2012年11月30日に、経済産業省が指定する国の伝統工芸品ではなく、沖縄県が指定する伝統工芸品の26番目として指定された。
三線製作の伝統工芸士
照屋勝武氏
銘苅春政氏
渡慶次道政氏
新崎松雄氏
仲嶺盛文氏
又吉真也氏
仲嶺盛文氏
親泊宋康氏(故)