琉球文字

琉球文字 Ryukyuan Writing System


琉球王国で広く一般的に使われていたのは日本のひらがなで、国内の文書に漢文はほとんど使われていない。琉球語の文字による記録は、古い石碑に記された仮名書きで見ることができる。例えば、1494年の小禄墓、1501年の玉陵の碑文、1597年建立の浦添城の前の碑がある。 浦添城の前の碑の表にはひらがな、裏には漢文が書かれている。石碑に書かれているのは三司官の名前で、「くにかミの大やくもい、ま五ら」「とよミ城の大やくもい、まうし」「なこの大やくもい、またる」と書かれている。これは国頭親方、豊見城親方、名護親方のことである。当時はこのように呼んでいた。 また、「渡唐船タカラ丸官舎職叙任辞令書」は全てひらがなの草書体で書かれ、中世日本で使われていた「候文(そうろうぶん)」という書き方と同じである。候文とは、文章の最後を「~です。」とするのではなく「~候(そうろう)。」と書く文体のことである。 また、尚円王(金丸)の直筆書状も現存している。15世紀からの琉球王朝では、公文書は漢字ひらがな交じり文で書かれ、琉球から明朝に送る外交文書には全て漢文が使われている。しかし、これは琉球自身が漢文で書くことを選んだのではなくて、当時明朝に外交の使者を送るには、明朝で使われている公文書の様式にのっとった外交文書を書かなくてはならなかったからである。 また、歌謡集「おもろさうし(琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された全22巻の歌謡集)」もひらがな主体の表記をとっている。カタカナはほとんど使用されなかった。なお中国語との対比で琉球語の単語や文の音をハングル表示した1501(浩治14)年4月22日付の文書(「海東諸国紀」のうち、付録「語音翻訳」の部分) があり、その日本語版も発行されている。 現在の語彙の中には、中国から直接導入された漢語や、それを翻訳した言い回しもある。漢文は中国語でそのまま読む方式と、日本式の訓読とが併用された。漢字は庶民が習得しているものではなく、仮名のほか、中国から伝来した独特の数字「蘇州碼」が主に帳簿の記録など商業用途に用いられた。日本の影響を受けるようになると廃れ、現在は文字としては使用されていない。また、八重山地方、特に与那国島では「カイダ文字〔カイダ字琉球語与那国方言でカイダーディーまたはカイダディやカイダー文字、カイダー字」と呼ばれる独特の象形文字が用いられた。 現代の琉球語は、日本語の漢字かな交じり表記を応用して表されることが多く、琉球語に即した正書法は確立していない。日本語表記と大きく異なる語彙の場合、意味の対応する漢字を用いて表記することがある。例えば、太陽の昇る方角を意味する「あがり」に「東」、太陽の沈む方角を意味する「いり」に「西」という漢字を当てて書くことなどである。しかし、本来城とは異質なものであるグスクに「城」を充てる(例:中城=なかぐすく、城間=ぐすくま)など、類推による表記も少なくないことに注意が必要である。また、宛てた漢字に合わせて琉球式の発音が日本式の発音に変更されたり(例:与那城=よなしろ)、意味ではなく音に合わせて漢字を宛てたために本来の意味が分かりづらくなったり(例:西原)する問題もある。





玉陵の碑文(たまうどぅんのひのもん)

第二尚氏第三代琉球国王・尚真王が創建した王家陵墓・玉陵の外庭にある石碑に刻まれた文。陵墓の被葬者の資格を、仮名書きで記したものである。
碑文によると、石碑は大明弘治十四年九月大吉日(1501年)に建てられた。沖縄に現存する石碑では、二番目に古い仮名書きで記されている。碑文の内容は、玉陵に埋葬されるべき被葬者の資格について述べたものである。






小禄墓
(沖縄最古の平仮名史料)

丘陵北側の断崖の下にある横穴を利用して作られた古式の墓で、前面には琉球石灰岩の石垣が積み上げられている。墓内に安置されている輝緑岩製の石厨子に「弘治7年おろく大やくもい6月吉日」の銘文があることから、小禄墓と呼ばれている。弘治7年は1494年にあたり、この銘文は現存する沖縄最古の平仮名史料といわれています。「おろく」はシマ(村落)名、「大やくもい」は琉球王府時代の高級役人の肩書です。墓口は葬式の時、御轎(おかご/肩にかつぐ輿)がそのまま入るように工夫され、石垣に目地がついている。






渡唐船タカラ丸官舎職叙任辞令書
(国王から家臣に出された任命(辞令)書、1523年)

琉球王国時代に発給された全の辞令書を総称して「琉球辞令書」と命名すると、琉球辞令書は形式上三つのタイプに区別することがすでに明らかとなっている。「古琉球辞令書」「過渡期琉球辞令書」「近世琉球辞令書」の三つがそれであるが、それらの三タイプの辞令書の代表的な例である。


   「しょりの御ミ事
    ㊞ たうへまる
      たから丸がくわにしやわ
         せいやりとミがひきの
      一人しほたるもいてこぐに
    ㊞ たまわり申候」
           と記されている。






琉球国金丸世主書状(1471年)

薩摩藩島津宛の金丸(尚円王)のかな交り書状。
第二尚王統初代王で、即位する前は金丸という名前であった。伊是名(いぜな)島 の農民の出身だが、 若い頃から尚泰久(しょうたいきゅう)に仕え、御物城御銷側(おものぐすくおさすのそば)という要職に就くまでになる。次に即位した 尚徳 (しょうとく)と折り合いが悪く一度は隠居するが、尚徳亡きあと王朝内でクーデターが起こり琉球王に即位した。











浦添城の前の碑

1597年尚寧(しょうねい)王時代に、首里から浦添城までの道路を整備した際の竣工記念碑である。
石碑の表に平仮名の琉球文、裏に漢文で、「尚寧王の命令で国民が力を合わせて、岩を刻み、道を造り石を敷き、川には虹のような橋をかけた」と記されている。







おもろさうし

表記は漢字を交えた平仮名書きであるが、沖縄語を写す独得の表記法が用いられている。



蘇州碼(スーチューマ)

明治中頃まで沖縄本島や先島諸島の庶民の間で数量を示すものとして用いられた。蘇州碼の形は地方によって多少異なるが、共通点として文字を所有しない人々の中で、一般の数量を表す記号として古くから使われてきた。古くと言っても、この蘇州碼はいつごろから用いられるようになったのかは不詳である。文献により 「数籌碼」、「数珠碼」 などと書かれるが、高橋俊三によると実は 「蘇州碼」 であり、中国の蘇州あたりから沖縄にもたらされた民間用の文字であったとされる。
蘇州碼は庶民、または漢字の習得ができない士族の女性に、特に沖縄本島で広く用いられた。琉球処分 (1879年) 以降蘇州碼は消滅していくが、ウチナーグチで 「スーチューマー グトゥ」 がスーチューマーのように 「不明、理解できない」、または 「稚拙な文字」の意味をあらわす表現として前世代まで一般的に使われていたようだ。



漢数字 二十 三十
蘇州碼 〡一 〢二 〣三
アラビア数字 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 20 30

 【例】

〡〧  17
〡一〩  114
〡三〩〢〥  13925

1から3の数字を連続して使う時は大きい位から縦、横、縦というように書く。


 【例】

〡二〣  123





カイダ文字

八重山地方、特に与那国島では、スーチューマやワラ算と同じように、 「カイダーディ」 というものが数量を記す方法として古くから使用されていた。
大正初期ごろまで用いられたカイダー字は象形的な文字である。しかしその起源、そしていつから用いられたのかは不明である。高橋俊三によるとカイダー字は象形的なものでありながら、漢字の 「六書」 という範疇、その 「指示文字」 の要素が加えられできた文字である。基本的には漢字を崩した形が多く、また沖縄本島などのスーチューマも漢字を基にした文字であると考えられる。


琉球古字

島津氏が統治する以前の琉球の宗教について記した 「琉球神道記」と、古代から中世・近世、日本と周辺アジア諸国の中国、朝鮮、また蝦夷、琉球との交流を国学の立場から表した史書 「中外経緯伝」に載っている琉球古字。

上から順に、
   キノヘ、キノト
   ヒノヘ、ヒノト
   ツチノヘ、ツチノト
   カノヘ、カノト
   ミヅノヘ、ミヅノト
   ネ
   ウシ
   トラ
   ウ
   タツ
   ミ
   ムマ
   ヒツジ
   サル
   トリ
   イヌ
   ヰ

   十干と十二支を表している。


藁算

グスク時代(中世相当)、琉球王国時代(1429~1879年)を経て、明治の始め頃まで沖縄で使われていた記録方法である。
文字を使うことを許されていなかった一般庶民の間で伝承されてきた。

藁算に主に記録されたもの
村の納税データ
集会の出欠簿

穀物の量
金高
材木の大きさ
布の長さまたは織糸の量
牛ㆍ馬ㆍ豚ㆍ山羊などの数
質物の金高と入月
村の氏子数
日雇い労働者の人数
約束
意志表示
お米の量、5石9斗7升6合4勺8才を示した藁算
石ㆍ斗ㆍ升ㆍ合ㆍ勺ㆍ才は昔のお米の量を表す単位である。昔は1合が1人が1回に食べるお米の目安とされていた。1石は1人が1年間に食べる量と言われている。





参考:高良倉吉『琉球王国の構造』
吉成直樹『琉球王国がわかる』
『古琉球における文字の導入・使用について』
『ウィキペディア』
栗田文子『藁算: 琉球王朝時代の数の記録法』



首里之印


中山王之印