爬竜

爬竜 Dragon Boat Races


爬竜(ハーリー)
旧暦5月4日(ユッカヌヒー)の犬厄日に、細身の漁船(サバニ)を競漕させる祭事である。


爬竜の起源
1743年に琉球王国の正史として編纂された歴史書『球陽』では、「肺龍船の起源」を三山立時代(古代琉球の時代:1322~1429年)の察度王(在位1350~1405年)としている。察度王は1372年に「琉球国中山王」として初めて明に使節を派遣した、実在が確認できる最初の王である。同書は、『中山世譜』によれば「三十六姓の閔入国」からもたらされたこと、俗諺によれば那覇の長浜大夫が南京で見たのをまねたこと、南山王の弟の汪応祖が南京で見たのを、帰国後に豊見城を築いて城下の漫湖で行ったことなどの諸説も伝えている。いずれも中国から伝わったとされる点は共通している。


爬竜の目的
『球陽』や、1713年に編纂された『琉球国由来記』所収の「唐栄旧記全集」、その他の文献によれば、中国の洞庭湖の近くで入水自殺した屈原を弔うために、死の翌日の5月5日に漕ぐという説が端午節の由来と関連して有力であるが、長浜大夫を供養するために、旧暦5月3日に死者を弔う白帷子を着て那覇の「西の海」で漕ぐという説もある。 糸満や那覇ではその歴史的正統性が強調されているが、他の地域では必ずしも起源説話の信憑性は尊重されておらず、年中行事の一部に定着したものとして受けとめられている感が強い。


歴史
琉球王国時代に入ると、首里城の龍潭池が完成しており、ここは中国からの冊封使をもてなすための場所として使われており、この池で爬竜舟競漕をした記録が残されている。つまり琉球王府にとってもハーリーは大事な伝統行事でもあったのである。琉球王国から明治政府と代わり、廃藩置県によってハーリーは禁止されたが、地域の行事として再度行われるようになったが、1928年を最後に競漕は途絶えている。戦後になり各地で復活をして、1975年に復活した那覇ハーリーは沖縄で最大の規模を誇るものである。


那覇ハーリー
歴史的なハーリーは、『球陽』によれば、競漕に先立って豊見城城下に詣でる習慣になっていたとされるが、その実施年は不明である。明治12年(1879)の廃藩置県で廃止されて以後、泊村の有志で単発的に行われていたのが、復帰後の昭和49年に社団法人「那覇罠龍船振興会」が発足し、専用船も新造して復活した。昭和初期の伊波普猷(1930)の説明では、かつては久米・那覇・若狭・垣花・泉崎・上泊・下泊の各地区から代表が出ていたが、当時すでに泊・那覇・久米を代表する3隻に統合されていた。(旧暦)4月28日~5月2日は久米の前江、3日は西の海、4日は那覇港の順で行われていたと伝えられる。
現在は埋立地の那覇新港埠頭で、ゴールデンウィークの新暦5月3~5日に行われる。「那覇ハーリー実行委員会」(1999)のプログラムでは、3日に中学生競漕、5日に各種職域やPTAのハーリーが多数並び、最後に御願バーリーと本バーリーが行われる。泊チームの黒い衣装は「琉球」を、那覇チームの緑は「大和」を、久米チームの黄色は「中国」を象徴している。会場周辺ではショーやコンサート、花火なども催される。
このように観光性の強い行事であるが、行事の前には「振興会」の役員が市内各地の拝所を順回して安全を祈願する。その場所は①安里拝所(那覇市安里一丁目「オキナワヌ嶽」)、②崇元寺拝所(泊一丁目「馬鞭ノウタキ」)、③泊・新屋敷拝所(泊一丁目「大あむ(阿母)拝所」)、④泊拝所(泊三丁目「黄金御嶽」)、⑤前島拝所(前島一丁目「前島拝所」)、⑥三重城拝所(西三丁目、「三重城跡」)である。三重城跡からは、豊見城跡(豊見城市)とヤラジャー(那覇市住吉町一丁目、米軍施設内「屋良座森城跡」)とを遥拝する。三重・屋良座森の両城は、旧那覇港口を南北両側から挟む防波堤に設けられた監視台であり、湾奥の漫湖と豊見城はハーリー発祥の地でもある。


糸満ハーレー
沖縄県内でも、もっとも壮大に行われるのが糸満ハーレーである。糸満は、三山統一される以前から南山の拠点として栄え、独自に中国とも交流してきた。のちには東南アジア海域まで広がる遠洋漁業の基地にもなり、ウミンチュ(海人)の町として知られてきた。
糸満ハーレー行事委員会(1997)によれば、南山王の故事に因み神事性を重んじるために、毎年旧暦5月4日に催されるが、目的は航海安全・大漁・豊年・災害除けなどと多様化している。当日はまず市街地車南部の小高いサンティンモー(山嶺毛)の丘でノロによって祈願がなされる。最初に行われるのがウガン(御願)バーレーであり、出発の合図としてデーフィ(旗振り)を司るのは、南山王から役目と屋号を授かったと伝えられる「徳屋」の子孫である。この競漕には糸満漁業協同組合の青年部から、西村・中村・新島の3地区の代表が参加し、勝った順に集落北端のヨリアゲ御嶽(白銀堂)に詣でて一年間の大漁と航海安全を祈願することになっている。
続いて職域、青年団、中・高生、教員団、門中などの各カテゴリーでハーレーが行われるが、漁港岸壁に平行した一往復半830mのコースは数分で終わってしまう。競漕の合間にはアヒラートゥエー(アヒル取り競争)や沖縄水産高校生によるマリンスポーツデモンストレーションなどもはさまれる。アヒル取り競争は子供向けの新設アトラクションではなく、福建省の伝統行事に因んでいる。最後は距離2,110mのアガイ(上り)バーレーである。なお、ハーレーの翌日はグソー(後生)バーレーと呼ばれ、水没者が海上でハーレーをするので漁に出ない。
糸満では復帰前から埋立てがすすみ、現在の漁港は昭和57年に完成したものである。漁港の東側岸壁は埋立て前の海岸線の位置と変わっていないが、南北両側は埋立地に囲まれ、水面は西方に開口部を持つのみである。狭い漁港内を何度も周回するので「観戦」には便利であるが、陸と海を結ぶ神事としての空間性が希薄である。明治期の新聞記事は、当時すでに那覇市からも見物客を集めていたことや、沖合から漕ぎ寄せる一回きりの競漕であったことなどを伝えている。


前兼久ハーリー
恩納村前兼久地区の漁港内で、海神祭の一環として旧暦5月4日に行われる。70年くらい前に、糸満から帰ってきた出稼ぎ民が豊漁を祈願して始めたそうである。沖縄本島中・北部の伝統的な海神祭と、南部の糸満の風習とが融合した形になるが、呼称はハーレーではなくハーリーである。かつては船主が漕ぎ手を募集していたが、提供する漁船の傷みがひどく、またスピードを競うには通常のサバ二よりもっと細身の船体が適しているという理由で、昭和60年頃から自治会でファイバー船を購入し行うようになった。全3時間20分のプログラムは糸満ハーレーの小型版のようで、御願ハーリーに始まり、職域ハーリーや中学生ハーリー、さらに各種イベントをはさんで、上りハーリーでしめくくる。競漕に先立って、集落中央にあるカミヤ(神屋)から浜の龍宮神を順に拝み、終了後はこの逆に戻ってくる。
なお同村の恩納地区のビーチでは毎年7月に「県知事旗争奪 万座ハーリーフェスティバル」が、地域の枠を超えて全島規模で行われる。これは完全なスポーツイベントであり、宗教的背景は全くない。前兼久ハーリーはあくまで集落民のための祭事であり、時期もずれているので、その両方に参加してもなんら競合意識はないという。


港川ハーレー
島尻地方では糸満につぐ規模の漁港を持つ具志頭村港川は、具志頭村(1993)によれば、1828年頃に糸満漁夫の上原氏が移住し西永嶺家の屋敷に定住したのが始まりとされている。ハーレーと呼ばれるように糸満の影響が強く、旧暦5月4日に、白銀堂から迎えたフエーヌウタキ(南の御嶽、男神)とニシヌウタキ(北の御嶽、女神)に海上安全と大漁、村民の安泰を祈願する。約4時間のプログラムでは、最初の御願ハーレーと最後の上りハーレーは実質的にフェー(南)組とニシ(北)組との対抗となるが、その間にはさまれる職域ハーレーや小・し中学校PTAハーレーは3チーム対抗となる。
港川は中央の道路を挟んで梱組と北組とに二分された集落構造である。行事前の祈願にも特徴があり、南組の①東永嶺家から始まって、毎岸に近い②南の御嶽に至り、ここで引き返して北組に入り、雄樋川に面した③唐の船御嶽から、④北の御嶽を経て、⑤西永嶺家で終わるという、きわめて南北のバランスのとれた順路となっている。終了後は②→③→④→⑤→①の順に戻る。
港川ハーレーのもう一つの特徴として、競漕コースの移転と復帰がある。本来の漁港は雄樋川河口にあり、ハーレーも河口から沖合に行って漕ぎ戻るという往復コースで行われていたが、1996年に埋立地と新漁港が完成し、いったんはそちらに移転した。ところが、漁港岸壁内を周回するのはおもしろくないとの意見で、河口の浚渫が進められたのを機会に、2001年からは再び旧漁港に復帰したのである。


爬龍船の大きさ・乗組員

那覇ハーリーの爬龍船

長さ:14.5メートル
幅:2.12メートル
深さ:0.72メートル
重さ:2.5t

乗組員
漕ぎ手:32人
中乗り:2人
旗振り:3人
鉦打ち:2人
舵(カジ)取り:2人
歌うたい:1人

糸満ハーレーの爬龍船

長さ:6.8メートル
幅:1.3メートル
深さ:0.47メートル

乗組員
漕ぎ手:10人
鉦打ち:1人
舵取り:1人

前兼久ハーリーの爬龍船

乗組員
漕ぎ手:10人
鉦打ち:1人
舵取り:1人

港川ハーレーの爬龍船

乗組員
漕ぎ手:10人
鉦打ち:1人
舵取り:1人

*糸満と港川は「ハーレー」と呼ぶ

参考:沖縄の歴史文化深掘り研究、沖縄爬龍船競漕(ハーリー)の祭事空間