沖縄

沖縄 Okinawa


沖縄県は363の島から成っている。49の有人島と多数の無人島からなり、0.01km²以上の面積を有する島は160島存在する。最東端から最西端までは約1,000km、最北端から最南端までは約400kmと、広大な県域を持つ。 南西諸島は鹿児島県から台湾近くまで長く延びており、地理的分布では北のトカラ列島までと、奄美群島と沖縄諸島および先島諸島の3つに大きく分けられる。沖縄本島と先島諸島の伊良部島との間は直線で約250km、与那国島と台湾の間は約100kmであるのに対し、奄美大島と屋久島の間は約200kmである。









地名の由来

一、「沖縄」はすでに8世紀の文献『唐大和上東征伝』に「阿児奈波(オキナワ)」の名で登場し、古謡集『おもろさうし』にも「おきなわ」と明記されているが、「沖縄」と明記したのは新井白石の『南嶋志』(1719年)が最初である。ただし、沖縄はもともとは沖縄島とその周辺離島をさす地域名でしかなく、琉球処分の結果「沖縄県」が設置されるに及んで初めて、現在の県域全体を包括する公称になったものである。琉球、沖縄ともにその語源はいまのところ明らかではない。

『日本大百科』より


二、那覇の崇元寺の南東にある浮縄御嶽に関する伝説によると、尚円王代(1470~76年)に泊村の大安里が、この御嶽近くの川の岸に漁のための釣縄を置いたのが置縄となり、御嶽の名になり、島の名になったという。

『角川日本地名大辞典』より


三、「沖縄」は沖縄固有の言葉に基づく島名である。八世紀半ば沖縄本島はおそらく漁場ごとに集落があって住民はその集落ごとの帰属意識はあっても島全体の、つまり国のような意識は全くなかったのではないかと思われる。漂着した人にここはどこかと聞かれて、その土地の名を口にしたと思われる。沖縄本島の住民は、沖縄島のことを「ウチナー」といっている。ウチナー=オキナー=オキナハ、と考えられるが、八世紀半ば、沖縄本島のどこででも、自分の住む島全体の名称としてウチナーといっていたとは思えない。
沖縄は、沖縄本島の住民が自ら住む限られた地域、さらには島全体を指す名称として、住民自体が呼称した言葉であると考えられる。
昔から沖縄本島の住民は自らの住む島のことを「うちなー」といっていた。それを耳にした明の冊封使の陳侃は、その著『使琉球録』(1534年)の中の「夷語付」の項で、「琉球人倭急拿」、「琉球国王倭的拿敖那」と記述し、清の冊封副使徐葆光は、その著『中山伝信録』(1721年)の「琉球語」の項で「琉球人倭急拿必周」、「琉球国王倭的拿敖那」と記述している。これらの記述に出てくる「倭急拿」、「倭的拿」はいずれも、「うちなー」を漢字に当てたものだと思う。

『琉球と沖縄の名称の変遷』より


沖縄の歴史


西暦 沖縄 日本
  300 大和朝廷が国土統一
  400
  500 仏教伝来
  600 琉求が初めて中国の歴史書に現れる
30人位の琉求人が大和に帰化
聖徳太子が17条の憲法発布
中国に遣隋使を派遣するようになる
大化の改新
  700 遣唐使の船が沖縄に漂着 大宝律令
古事記・日本書紀の編纂
  800 各地に按司が現れる 藤原氏台頭
遣唐使中止
  900 国風文化
1000 武士の台頭
1100 初代 瞬天王統成立 平清盛が太政大臣になる
平氏滅亡
源頼朝が鎌倉幕府を開く
1200 2代目 瞬馬順煕
3代目 義本
初代 英祖王統
2代目 大成王
3代目 英慈王



文永の役
弘安の役
1300 4代目 玉城王
初代 察度王統
明国に進貢船を送る
明国 国名を「琉球」と命名
2代目 武寧王

足利尊氏が室町幕府を開く

南北朝が一つになる
金閣寺建立
1400 初めて明の冊封使が来沖
尚巴氏中山を統一
初代 思紹王即位(第一尚氏)
尚巴氏三山統一
2代目 尚巴氏王
3代目 尚忠王
4代目 尚思達王
5代目 尚金福王
那覇~首里の長虹堤が完成
6代目 尚泰久王
阿摩和利の乱 鉄砲が使用される
十八寺院建立
7代目 尚徳王
初代 尚円王(第二尚氏)
ノロの勢力拡大
2代目 尚宣威王

勘合貿易開始








応仁の乱




銀閣寺建立
1500 3代目 尚真王
先島諸島全域を統一
玉陵・円覚寺を建立
中央集権を実現する
巫女の組織化
4代目 尚清王
奄美大島を討伐
5代目 尚元王
那覇を目指した倭寇を撃退する
6代目 尚永王
7代目 尚寧王




鉄砲伝来
キリスト教伝来



豊臣秀吉が全国統一
関が原の乱
1600 薩摩藩上陸
尚寧王が薩摩、江戸へと謝罪の旅に出る
8代目 尚豊王
サトウキビで黒糖産業が盛隆
9代目 尚賢王
10代目 尚質王
中山世鑑が作られる(琉球史書)
北谷事件 質素倹約令
11代目 尚貞王
窯場を那覇壺屋に集めて陶業を振興
徳川家康が徳川幕府を開く


鎖国
1700 12代目 尚益王
大飢饉で3000人が餓死
13代目 尚敬王
組踊り完成
十数条の御教条(儒教に基づく人の道を説く)
恩納ナビ(琉歌の歌人)活躍
14代目 尚穆王
15代目 尚温王
16代目 尚貞王


享保の改革





寛政の改革
1800 17代目 尚こう王
イギリスの軍艦2隻が泊港に寄港
オランダ商船が来航、開国貿易を要求
18代目 尚育王
イギリス商船が来沖し、開港貿易を要求
19代目 尚泰王
アメリカペリー提督来沖

琉球は鹿児島県の管轄下に入る
琉球処分
1875年5月27日、尚泰王は首里城を離れる
大塩平八郎の乱
天保の改革



ペリー浦賀来航・ 日米通商条約締結
大政奉還
明治維新
廃藩置県
大日本帝国憲法発布
日清戦争
1900 県政が布かれる
他県並みの地方自治権獲得
不況で食糧難・ソテツ地獄
本土の防波堤として太平洋戦争に組み込まれ、多数の戦死者を出す
(県民死者約12万人)
アメリカが南西諸島を統治
基地強制収用
1975年5月15日 沖縄日本復帰
沖縄海洋博が開催される
1978年7月30日 交通法改正で本土と同じになる

日露戦争
第一次世界大戦
太平洋戦争勃発



ポツダム宣言
国連加盟
沖縄日本復帰




2000 沖縄でサミット開催
米軍基地再編・住宅地にある普天間基地移設が課題になる
米軍ヘリが沖国大キャンパスに墜落
日本政府は普天間代替基地も沖縄県内に新設の方針
仲井真知事が県内辺野古への基地新設を承認
県内基地移設反対を訴える翁長知事当選
総選挙で自民候補が全敗


琉球処分

1871年、日本で廃藩置県が行われ、それに伴い琉球は鹿児島県の管轄下に置かれるようになる。その後、続いていた琉球の王朝制度が問題になり始め、1872年、琉球国から琉球藩に。尚泰王は華族になり、琉球藩王という地位になって外国との交渉を禁止された。清国への朝貢は差し止め、王は東京に住まう事。そして首里城は開け渡し王府は解体する事、などがその内容である。
1879年、政府は500名弱の部隊で首里城に乗り込み沖縄県設置を宣言。 3月31日には尚泰王が首里城を明渡し沖縄を離れる事になり、長い間続いた琉球王国独自の歴史は、ここで強制的に幕を閉ざされてしまった訳である。この一連の事件を琉球処分と呼ぶ。


日本の県としての沖縄

沖縄県民が他の県の県民と同じ国民としての権利を得るまでには時間がかかった。沖縄県各地で旧制度廃止や他県との不平等などの制度改善を求めて県庁職員だった謝花昇を中心に運動が盛り上がり、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、本土から10~25年遅れて施行された。
その後、日本政府による沖縄県の皇民化計画は進められ、1890年には皇国史観を養うことを目的に波上宮を官幣小社に。沖縄各所にあった御獄は村社として整理され、拝殿や鳥居をつくり神道の布教が行われて、1898年には徴兵令も施行された。
1920年、南洋諸島が日本の委任統治になると、多くの沖縄県民が移住し、ハワイやブラジルなどへの移民が盛んだったのもこの頃である。1930年代には世界恐慌による大不況と農産物の凶作がかさなり飢饉状態になった。食べ物が無くソテツの実を食べたりもしたが、毒抜きができずに死亡する県民もでてソテツ地獄と呼ばれていた。


第二次大戦と沖縄

1945年、沖縄は太平洋戦争に巻き込まれて本土決戦のための捨石と位置付けられ、国内唯一の大規模な地上戦が行われ、多くの犠牲者を出した。
ウチナーンチュも皇国史観を叩き込まれ、軍属の偏向教育によりアメリカは鬼だ!人間じゃない!と思い込み、捕虜になるより自決を選ぶ県民が多くいた。ひめゆり平和祈念館少女の像 怖くて逃げ出すような者は、日本軍の兵隊により射殺されたケースもまれではなかったようだ。
自分の子供を殴り殺してから、自殺する親。 手榴弾で集団自決した学徒の話。 沖縄では、このような体験を今でも語りつづけるお年寄りがいる。沖縄戦で戦死した日本 188,136人の中で、沖縄県出身者が122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人)といわれている。これには、餓死したり病死した数は含まれておらず、戦争のために亡くなった方の数は、これをかなり上回ったものと思われる。


戦後の沖縄と米国の統治

終戦後、約30万人の県民はアメリカ軍の収容所で運搬作業などをさせられましたが、食料等の配給は受けていた。1945年になると、ようやく人々は自分達の村に帰れるようになりましたがどこも焼け野原の状態で、復興には多大な努力が必要だった。県民が収容所にいる間に、アメリカ軍は広大な土地を軍用地として接収していて、これが現在もそのまま残る米軍基地となったわけである。
1948年に通貨がB円と呼ばれる軍票に統一された頃、ようやく人々の生活にも活気が見え始めてきた。世界情勢が緊迫してくると、アメリカ軍は沖縄を太平洋の要石として位置付け、より基地機能の拡大をはかった。 県民は、強引な土地使用の条件の改善を求めて「金は一時、土地は万年」の合言葉で島ぐるみの闘争を行い、1958年には絶対的権力者の米軍から譲歩を勝ち取った。 この事が、復帰運動につながっていく。(1970年・コザ暴動:米兵が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生)


沖縄の日本復帰

1972年5月15日、27年間のアメリカ支配から、沖縄は日本の県として生まれ変わった。しかし当時の新聞は、「今祖国に帰る、変わらぬ基地、続く苦悩、沖縄県の厳しい前途、復帰元年、不安の幕開け、自治に新たな苦悩」の見出しで復帰を伝えた。沖縄にとって、祖国復帰とはなんだったのか、今歴史を通して改めて考える時期ではないだろうか。


1975年 沖縄国際海洋博覧会開催
1978年 7月30日 交通も本土と同じ車は左、人は右となり、沖縄海洋博が開かれる
2000年 サミット開催
2004年 沖縄国際大学に米軍ヘリ墜落炎上


現代の沖縄

沖縄は亜熱帯の珊瑚礁の海に囲まれている環境から、他府県の観光客が来沖している。それを目当てに、日本国内はもとより海外からも多くの資本がホテルやリゾート建設のために流入した。
しかし、開発の建築工事のために周辺の海域は赤土汚染が広がってきているのも現状である。その陰では、いまだに米軍基地が広くない県の多くの土地を占有し(日本国内米軍施設の70%以上が集中している)、基地があるゆえの事件、事故が多発している。そんな中で、その基地を一部の沖縄県民が当座のお金と引き換えに誘致する、という信じられない事態も過去に起きた。しかし、実際には大多数の県民が米軍基地はもう沖縄に増やしてほしくないと考えている事が、県民投票でも明らかになっている。その意見を無視して前保守系県知事の仲井真氏が県民から隠れるようにこそこそと、東京で沖縄県内辺野古地区に普天間代替施設の建設許可を出した。それに憤りを感じた翁長現知事が知事選で圧勝、その後の国政選挙でも、県内基地新設に反対する議員が全員当選するなど、県民の新基地に対する反対の姿勢は、より明確になっている。


沖縄世界遺産

2000年、ユネスコの世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、今帰仁城跡、勝連城跡、座喜味城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽、玉陵、識名園、斎場御嶽の九カ所が登録された。 時期的には沖縄の歴史で言う三山時代から、15世紀に入り尚巴志が中山の王になり、北山、南山と制圧を進めて沖縄全土を琉球王国として収めた頃の史跡が主になる。


島嶼

南西諸島
九州南端から台湾北東にかけて位置する島嶼群である。北から南へ、大隅諸島、吐噶喇列島、奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島と連なり、沖縄諸島の東に離れて大東諸島、八重山列島の北に離れて尖閣諸島がある。


沖縄の島々
大きく分けると、琉球諸島と先島諸島に分かれ、その間は300kmほど島の無い海によって隔てられている。この距離が先島諸島に独特の文化を作り上げてきた。


琉球諸島

沖縄諸島
沖縄本島、宮城島、屋我地島、古宇利島、伊江島、瀬底島、水納島、津堅島、久高島、奥武島、前島、渡名喜島、栗国島、久米島、オーハ島、鳥島、硫黄鳥島

与勝諸島
伊計島、宮城島、平安座島、浜比嘉島、藪地島、浮原島、南浮原島、津堅島

伊平屋・伊是名諸島
伊平屋島、伊是名島、野甫島、具志川島、屋那覇島、降神島

慶良間諸島
座間味島、阿嘉島、慶留間島、渡嘉敷島、久場島、外地島、奥武島、安室島、黒島、嘉比島、慶伊瀬島、前島

大東諸島
北大東島、南大東島、沖大東島、西南西小島、南西小島

先島諸島

宮古諸島
宮古島、池間島、大神島、来間島、伊良部島、下地島、水納島、多良間島

八重山諸島
石垣島、竹富島、小浜島、加屋真島、黒島、新城島、上地島、下地島、由布島、西表島、鳩間島、外離島、波照間島、与那国島、嘉弥真島

尖閣諸島
魚釣島、北小島、南小島、九場島、大正島、沖の北岩、沖の南島、飛瀬

* 「尖閣諸島」の名称は、日本政府からこの島を無償貸与された実業家の古賀辰四郎の依頼により、1900年(明治33年)5月に当地を調査した高知県出身の教師、黒岩恒が命名したもので、島の尖っている形状と「イギリス海軍水路誌」にある "The Pinnacle Islands" の意訳に由来する。

* 米国は尖閣諸島の領有権について最終的に判断する立場にないとしつつ、領有権をめぐる対立が存在するならば関係当事者間の平和的解決を期待するとの中立的立場を示す一方、尖閣諸島は1972年の沖縄返還以来日本の施政下にあり、日米安全保障条約第5条は日本の施政下にある領域に適用されるとの見解を示している。

* 台湾(釣魚台列嶼)は1971年6月の外交部声明で公式に領有権を主張。

* 中国(釣魚群島あるいは釣魚島)は1971年12月の外交部声明で公式に領有権を主張。