琉球語新約全書

琉球語新約全書
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琉球國とキリスト教

キリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりである。日本ではキリスト教はすでに禁止されていたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われた。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられた。
1844年にフランスの宣教師が、1846年にはイギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムなどが来琉して、それぞれの軍隊の力を背景として布教活動を許可するよう王府に圧力を掛けた。王府は対応に苦慮しながらも護国寺などへの居住を許可したが、布教活動には様々な制限を加えることで対抗した。ベッテルハイムは滞在中琉球方言を修得し、新約聖書の福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成、後に香港で出版した。

琉球における最も大きなキリシタン禁圧は八重山キリシタン事件である。すでに琉球が薩摩の支配下に入っていた1624年、スペイン船が石垣島に漂着した。この船にはドミニコ会神父ルエダが載っていた。石垣島宮良間切の元頭職石垣永将は彼らをもてなすとともに、「稽古事」(キリスト教を学ぶこと)を行っていたとして琉球王府に流罪とされ、さらに1634年には薩摩藩が石垣の処刑を求め、翌年、火刑に処された。ルエダ神父も殺害された。これ以後、琉球でも禁教策が強化され、1636年、薩摩藩は琉球に宗門改の実施を求めた。
ちなみに沖縄の一部地域には、薩摩藩による宗門改めに由来する伝統行事が残っているところもある。



琉球語新約全書

琉球國末期、琉球に滞在しキリスト教の布教活動を行ったイギリス人ベッテルハイム(1811~1870年、漢字名は「伯徳令」)が聖書を琉球語に訳した。背文字には「琉球語新約全書」と表記され、別名「琉訳聖書」とも呼ばれる。ルカ伝(路加傳)とヨハネ伝(約翰傳)の二つの福音書と使徒行伝(聖差言行傳)、ロマ書(保羅寄羅馬人書)が訳されている。全文カタカナ表記。1冊目の冒頭「ハジマリニ、カシコイモノヲテ」(始まりに、賢い者をて)に見るように、日本語をベースにしながら「ヲテ」といった琉球語の言い回しを多用する方法をとっている。



琉球古語 主の祈り

うてぃんに いめんせ-る うまんちゅぬ うやがなしー
うんな あがみやびら
くぬゆーん てぃんぐくぬぐとぅ なちうたびみせーびり
うくくるぬ てぃんぐくうてぃ うくねらりーるぐとぅ
くぬゆーうてぃん うくねーらちうたびみせーびり
いちみぬ たみに ひちゆーなむん しでらち うたびみせーびり
わったーん ちゅぬ ちみ ゆるさびーくとぅ
わったー ちみん ゆるちうたびみせーびり
わったー やなまゆいぐとぅんかい まむてぃうたびみせーびり
くぬゆぬ あくぬ みちがらん まむてぃうたびみせーびり
(うにげーさびら) (うんぬかてぃうたびみせーびり)



うてぃんに いめんせーる うまんちゅぬ ちちうやがなしぃ
ちゆし うんな あがみらりみせーびり
くぬゆぬなかん てぃんぐくとぅ なちうたびみせーびり
わったー ひびぬ ために ひちゆうなむん
ちゅーん うたびみせーびり
わったー ちみん ゆるち うたびみせーびり
わったーん ちゅぬ ちみ ゆるさびーん
やな まゆいぐとぅんかい ひかさらんぐとぅ
あくから すくてぃ うたびみせーびり
(うにげーさびら)



天のお父さん、 あなたの名を礼賛します。
あなたの世界が来ますように。
天国がそうであるように地上においてもあなたの思いが
果たされますように。
私たちに今日の食料を与えてください。
あやまちある人を私たちがゆるすように
私たちのあやまちをゆるしてください。
私たちを誘惑におちいらせず、 悪事から救い出してください。
世界と力と栄光は永遠にあなたのものだからです。
アーメン。



参考:高良倉吉、新城俊昭「琉球・沖縄史」、
うるま市石川の「キリシタンチョー」