琉球國
琉球國(琉球王国)は独立した王国で15世紀から19世紀に至るまで琉球の島々の大半を支配した。琉球の王は沖縄島を統一し、王国を今日の鹿児島県の奄美大島、そして台湾の近くの先島諸島にまで広げた。非常に小さな国であったが、王国は中世のアジア、東南アジアの海上貿易網に中心的な役割を演じた。
琉球の名称
一、「琉球」の呼称は中国人による命名で「明実録」
『日本大百科』より
二、「リュウキュウ」という語の初出は六五六年の「隋書」に登場した「流求」で、以後中国の史書には「流虬」「流鬼」「留求」「留球」「留仇」などが登場するという。また「
『沖縄学への道』より
琉球國の起源
14世紀に沖縄島の小さな領地は
これらの3つの国あるいは部族連合は主要な族長により統率されて戦争をし、中山が優勢となり、中山の指導者達は中国により、南山、北山よりも 正統的な王と公式に認められ、完全な勝利ではないにせよ、彼らの主張が大いに合法的なものとなった。中山では
尚巴志は階級的な中国の宮廷方式を採用し、首里城を建設し、首里を首都とし、那覇港を建設した。1469年に、
15世紀の終わりまでに、王国は琉球列島の最南端まで支配し、1571年までに北は九州の近くの奄美大島までも王国に組み込まれた。奄美大島では王国の政治体制が採用され、首里の権威が認められていたが、南方の先島諸島は何世紀もの間、進貢国と宗主国の関係のままであった。
海上貿易の黄金時代
2百年近くもの間、琉球王国は東南アジア、東アジアにおける海上貿易の キー・プレイヤーとして栄えた。王国の海上活動の中心となったのは1372年に中山により始められた明王朝への朝貢の継続であり、これは、(琉球王国以前の) 3つの沖縄の王国が共に享受したものである。中国は琉球の海上貿易に船を提供し、限定された琉球人を北京の帝国学院 ( 国子監 ) で学ばせ、中山の国王の権威を公式に認め、明の港における正式な交易を許可した。琉球の船は、しばしば中国によって提供され、全地域の港でも交易をし、朝鮮、中国、日本の港に航行するのみならず、シャム、マラッカ、ジャバ、スマトラ、Annan (ベトナム)、パタニ、パレンバンなどや他の地域にも航行した。日本の製品(銀、剣、扇子、漆器、屏風)と中国の製品(薬草、鋳造貨幣、陶磁器、錦、織物)が東南アジアのスオウ、サイの角、スズ、砂糖、鉄、龍涎香、インドの象牙、アラビアの乳香とトレードされた。琉球の船による全部で150回におよぶ王国と東南アジアの航海が歴代宝案に記録されている。歴代宝案とは、王国により編纂された外交文書の公的な記録であり、航海は1424年から1630年の間にまたがり、61回はシャム、10回はマラッカ、10回はパタニ、8回はジャバ、そしてそれ以外の地域にも赴いている。
中国の政策である海禁により、交易が朝貢国および正式に許可されたものに制限されたことと、明政府の琉球に対しての優遇政策から、王国はおよそ150年の間繁栄することとなった。しかしながら16世紀後半には王国の貿易の繁栄は低落することになった。倭寇やそれ以外の多くの理由から中国の優遇政策が次第に失せ、海上貿易におけるヨーロッパとの競争にも苦しむことになった。
尚真王
第二尚氏王統で最も優れた業績を残し、琉球王国の黄金期と呼ばれる時代を作り上げた。
日本の侵略と従属
1590年頃、豊臣秀吉は琉球王国に、朝鮮を征服する戦役に協力するよう要請した。成功すれば、秀吉は中国に向かう意図があった。琉球王国は明の朝貢国であったため、要求は拒否された。秀吉の陥落に伴い登場した徳川将軍は島津家 ── 薩摩藩 (現在の鹿児島県) の封建君主 ── に琉球を征服するための遠征軍を送ることを許可した。これによる侵略は 1609年に起きた。占領は非常に速く起き、武器による抵抗は最低限のものであり、尚寧王は捕虜として薩摩藩に移送され、次いで江戸に移送された。2年後に釈放された時に、琉球王国はある程度の自治を再び獲得した。しかしながら、薩摩藩は琉球王国の領地、特に奄美大島を手に入れ、薩摩藩に組み込まれ、現在も沖縄県の一部ではなく鹿児島県の一部となっている。
琉球王国は日本と中国に2重に従属することとなり、琉球は徳川将軍と明の宮廷のいずれにも進貢することとなった。明は日本との貿易を禁止していたため、薩摩藩は、徳川幕府の加護により、王国との貿易を使用して、王国が中国との貿易を継続するようにした。それ以前に日本がオランダ以外のヨーロッパの国と絶縁したため、そのような貿易関係は徳川幕府と薩摩藩にとり極めて重要であった。薩摩藩はこのようにして手に入れた権力と影響力により、1860年代に幕府を転覆したのである。
琉球王は薩摩藩の隷属者であるが、彼の土地は藩の一部とはみなされなかった。これは1879年に島々が公式に併合され、王政が廃止されるまで続き、琉球は日本の一部とみなされることもなく、琉球人は日本人ともみなされなかった。技術的には薩摩藩の統制下にあったが、琉球にはある程度の自治が与えられ、中国と貿易をすることにより、薩摩藩にも幕府にも利益を提供したのである。琉球は中国の朝貢国であり、日本は中国と正式な外交関係を持っていなかったので、琉球が日本によって統制されていることを北京に知られないことが重要であった。従って、皮肉にも、薩摩藩 ── そして幕府 ── はすぐにわかるようにあるいは強制的に琉球を占拠したり、琉球における政策や法律を強制することなどに関しては、ほとんど干渉しなかったのである。状況は関連する3者 ─ 琉球王国政府、薩摩藩、幕府 ── にとって、出来る限り別の外国であると見える方が都合がよかったのである。日本人は将軍の許可なしには琉球を訪れることが禁止され、琉球人は日本人の名前、衣類や習慣を採択することが禁止されていたのである。琉球人は江戸を訪れる際に日本語が理解できることを表明することが禁止されていた、薩摩の大名である島津家は江戸への道中、あるいは江戸内部の通行で、琉球の王、役人や琉球の人々を見せまわすことにより、威光を勝ち得たのである。国王あるいは全王国を隷属させている唯一つの藩として、薩摩藩は異国的な琉球から非常に多くのものを得ることとなり、まったく別の王国であることを強調したのである。
ペリー提督が 1850年代に米国との通商を日本に開かせるために日本に寄港したときに、彼はそれ以前のヨーロッパの船乗りと同様に最初は琉球に停泊をして、琉球に米国との通商に道を開くための不平等条約を迫ったのである。彼は、ここから江戸に向かったのである。明治維新後、日本政府は琉球国を廃止し、1879年3月11日に琉球を沖縄県にして日本に併合した。奄美大島は薩摩藩と一体となっていたため、鹿児島県の一部となった。琉球国最後の王である尚泰(第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王在位 1848年6月8日~1872年10月16日) は東京に移動させられ、侯爵となった。これは他の日本の貴族と同じで、東京で1901年に死亡した。
首里城
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転に伴い、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年に正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。
左御紋(ヒジャイグムン)
琉球王家紋章。
左三つ巴(ひだりみつどもえ)とは角度が微妙に異なる。
「琉球王家紋章が表す意味 ── 琉球王朝の国是、三徳の訓 ──」
美 身持ち美しや(躾・肝美らさ):内心清らかに美しく、外形しとやかに艶美に 仁 仕情け深しや(義理人情に厚く):情け深く、人情厚く 柔 事柔らしや(和合):柔和であり守礼である。
左三つ巴
古代から世界中で見られる普遍的な文様。
勝連城跡から発掘された左三つ巴の瓦
琉球王国の国旗
1429~1609年の間独立、1609年に摩藩の属国、1875年まで使用。
琉球王国・琉球藩の最後の旗
1872年に琉球藩の設置、1875~1879年の間使用、1879年に日本へ併合。
琉球國王之印
中国の明朝(1368~1644年)が滅びた後、清朝(1644~1912年)の皇帝から尚質玉に与えられた国王印。この前に琉球は、明朝から与えられた臥王印を返してこの印をもらっている。材質は、銀製で金メッキ。上部の取っ手部分はラタダをかたどっている。漢字と満州文字で琉球国王之印と書いている。元朝期(1271~1368年)に中国がチベットに与えた印をモデルにして制作している。チベットは、中国に臣下の礼をとっている国の中で琉球と同じランクの国であった。
主な出来事
沖縄本島と周辺離島を測量した地図「琉球國之図」 1796年製作